2007年11月23日金曜日

父の事

 私の父は小さい頃から病弱だったらしい。
 幼い頃から小児喘息、成長してからは気管支拡張症と、苦しそうに咳き込むときの独特の響きは遠くからでも父と認識できた。
 最初公務員になった理由も体が弱いというその辺の事情かららしい。
 後に当時の農協組合長に請われて農業技術者だった父が農協に転職したことは経済的にも精神的にも家族にとっては結果的に後々大きな負担になった。
 教師だった母は戦後の食糧難の経験から農業経営の観点から見れば充分とは言えない相続した農地を管理していくために教職を退き農業をすることになった。
 体が健康だった母が夫婦でやってもしんどいかと思える広さの農地を手伝いの人を雇っていたとはいえたった一人で管理して来たのは本当に大変なことだったと思う。
 小中高校と学校の暇暇に家事の手伝いをしてきた経験から言えば女手一つでよくもまあこれだけの事をやってこれたものだと只感心するばかりである。
しかしそのお陰で子供四人とも最高学府に学ぶことが出来たのである。

2007年11月3日土曜日

祖父のこと

 私の父方の祖父は土建業を営んでいた。元々は赤貧から身を起こした石工であったという。澄んだ目をした温厚な姿は気品があり今もはっきりと思い出すことが出来る。
  太平洋戦争前には軍神と崇められた橘中佐を祀る県社橘神社の造営や仁田峠登山道路の新設に関わる仕事などで財をなしたそうだ。
 他に港湾建設の仕事特に難工事には決まって駆り出されるほどの技術を持っていたらしい。
 ただ入札制度などの政治的な関わりを嫌い3人いた息子の誰にも後を継がせなかった。
 長男は銀行員、次男である父は公務員、三男は教育者になった。
 幼い頃、本家の別棟にある祖父の隠居所の1階には発破、今で言うダイナマイトの信管が整理されたハンマーや石のみなどの他の道具の中に整然と置かれていたのを目撃したことがある。
 我が家の中庭に井戸を掘る必要が出来たとき祖父のかつての部下の方が信管で大きな岩をいとも簡単に爆破粉砕しあっという間に井戸が出来たことは未だ記憶に新しい。
 幼稚園から小学生のころ、この祖父に連れられてあちこちに行った記憶がある。
 幼稚園時代には所有していた山の木の生育具合を見に、タクシーで持ち山の入口近くまで行き、そこからは歩いて山の境界線を確認しながら一周したり、雑木林の中に複数ある炭焼き釜の炭作りの最中の釜を点検したり様々な経験をさせて貰った。
 何度かそんな経験をしたのだが同行したのは決まって本家の長男と分家の長男の私の二人だけだった。 後から考えてみれば、福岡のスポーツセンターで行われていた大相撲九州場所にも連れて行かれたのはその二人だけだった。 事ある毎に従兄弟(本家の長男)と二人、何処にでも連れて行って貰ったような気がする。 そんな山の一つが父を経由して遺産の相続という形で孫である僕たち兄弟姉妹のものになった。 僕が幼稚園時代に祖父の手ほどきを受けて植林した杉と檜がもう五十歳以上になり周囲1メートル近い。


 
 

花のある人ない人

俗に花のある人、ない人という言葉がある。
 いわゆるぱっと見たときにはっとさせられる美しさやオーラを持った人の事である。
 世阿弥の風姿花伝のなかに書かれている花も本質は同じだろうと思う。

 花は感動やエモーションの根源になる要素であり、生きていく上でも最も大切にして生きていかなければならないものであると思う。