2007年5月19日土曜日

市長と県議が親子

これは大変な事である。良い悪いと言う事を言っている訳ではない。
親子二人で同時に同じ行政区域を引き受ける事になったというのはむろん担ぎ出した支持者達の責任でもある。果たしてそれだけの力量があるかどうかこれからの4年間で問われる訳だが問題はそこにあるわけではない。権力の集中が問題なのである。諸般の事情から他にしかるべき候補者が出なかったと言うのも別の意味で問題だが、それにしても出る方も出る方ではないだろうか?私は素朴に彼ら親子の良識に疑問を持つ。
 彼らの力量が有ればあるほど周囲がどう思おうが結果的に行政の私物化は避けられないだろう。親子はあくまでも親子である。親子共々聖人君子であれば少しは救われるだろうがまずはあり得ない。政治家というのはあくまでも利権に関わる職業だからである。利権に関わる人間が聖人君子であり得る事は現在の選挙の仕組みから見て不可能である。人となりや人物のことではない。
 行政の長がどれほどの権力を与えられているか殆どの有権者は知らない。
 市長も県議も地方自治における強大な権力の保持者という点では殆ど同レベルなのである。 
 親子二人での陰湿な暗黒の恐怖政治が行われないという保証は何もないのである。
 良識というのはこういうときに問われるのではないか?
 バランス感覚とでも言うべきかも知れないが、判断を下した有権者の決断はOKだった訳だから選んだ有権者の責任すなわち今後の政治上の結果は自分たちで全て引き受けなければならないだけである。
 問題点が明らかになるとすればそれは任期も終わり全てに不満が露呈するようになったあげくでしかないだろう。 つまり選んだ有権者は何年も経ってから後悔しても始まらない選択をしてしまった事に気付くしかない。
 これが民主主義の別の危険な側面である。
 願わくばお二人が一部の支援者のしがらみに振り回される事無く地域住民の為に真の聖人君子的行政を行われん事を。
 付け加えておくが私は彼ら親子の事は何一つ知らない。人間性も知性も理性も感性もそして氏素性も。

2007年5月13日日曜日

政治責任と社会的責任

 世の中には仕事の責任の取り方が曖昧で結果責任をあまり追及されない人達が存在する。
 公務員である。公共のサーバー(奉仕者)としての仕事で誤りや失敗があってもその責任を問われるという事はほとんど無い(ようである)。仕事柄公共の為の仕事だから何をしても許されるという勘違い。
 責任を追及されても前任者がやった事なのでと言う言い訳だけで済まそうとする。
 最終的には個人的な責任がある筈なのに集団全員無責任が当たり前とされてしまう。
 いま国会で侃々諤々の議論がされている社会保険庁の年金問題はその最たるものである。
 すべての公務員が悪いわけではない筈なのになぜこんなにまでおかしい国になってしまったのだろうか?
 政治が悪いからである。教育が悪いからである。詰まるところ選挙民である国民が悪いからである。
  その地域の代表である議員の力量はそれを選出した選挙民のレベルだと言われる。
 知識レベル、文化レベルいずれもその選挙民の平均値以上の代表とはなり得ないからである。
 だから政治が悪いのは選挙民が悪いせいである。
 政治の仕組みを作るのも運営するのも選挙民である自分たちが選んだ政治家である。
 つまり政治の仕組みが悪い原因も責任も選挙民にあるのは当然である。
 政治が悪い原因は誰でもない、自分たちなのだという認識を持たなければ政治は永久に変わらない。
 
 戦後の中途半端な民主政治の仕組みはアメリカの押しつけで始まったものではある。
   (しかしこれはその後の政治家の責任と同じくその選挙民にも責任がある。) 
 日本に本当の意味での民主主義が生まれないのは”まあまあなあなあ”のなれ合い政治が変わらないからである。
 地域を代表する候補者には政党の枠に関わりなく地縁血縁などのコネが全てという日本の社会構造が味方する。本来政党や主義主張の類が意味を持たない。
 自民党政治が存続できたのもじつはこのお陰である。
 これは日本という閉鎖型の、和を尊ぶ国民性によるものなのだから”欧米型の民主主義”でない日本独自の政治システムをそろそろ検討しても良い時期にきているのでは無いか?
 そもそもアメリカでは大統領の選び方からして日本の首相の選ばれ方と大きく異なる。
 
 政治家とは政治のプロであるがのらりくらり責任逃ればかりが得意で肝心の政治家としての役割を本当に果たしている人がどれほどいるだろうか?
 同じ事は公務員の集団的責任逃れにも言える。
 政治の役割の本質は利害調整であり、国が何とかまとまり繁栄しているのだから概ねうまくいっていると主張する政治家もいるかも知れないが・・・。
 公務員の増減も任免権もすべて政治家に委ねられているのである。

2007年5月11日金曜日

プロフェッショナル・職人

 プロフェッショナル(プロ)という言葉は普通プロ野球やプロゴルファーなどの言葉でなじみの深い言葉であるが本当にその意味合いが理解できているだろうか?
 プロは職業という意味であるが、単にアマチュアとの区分を目的にした言葉では無い。
プロになるとアマチュアとは異なり責任の重さが格段に異なってくる。
責任というのは専門家としての職業生命をかけるという事である。
プロとして行った事に対して何か問題が生じた場合、その責任の取り方はプロとしてその職業生命をかけられるかどうかと言う事になる。
 今後の生活基盤を失うほどの責任の取り方に覚悟を持っているかどうかと言う事になる。
すべて職人はプロとしてその技量を評価される。職人としての優れた技量を評価される反面、拙劣な場合の評価も厳しい裁定になる。物販業にしろサービス業にしろその提供する品質レベルが低いならば売り上げ実績がたちまち減少して商売が成り立たなくなる。
 プロ野球やゴルフのように一般の人達にその優れた技量をお披露目する仕事はエンタテインメントの仕事だが観客が期待する実績を達成出来なければたちまち人気が落ちお払い箱になる。
 普通、職人が受けた仕事は相手の要求に満足に答えられなければその責任を全うした事にはならない。
 各種の専門家つまり職人である税理士、弁護士、医師、庭師、左官、大工、理美容師などすべてがそうである。
 

2007年5月10日木曜日

ホンダ創業者本田宗一郎のことば

「いいかみんな、消費者というものは「ニーズ」なんてものは無いんだよ。
消費者というのは欲求は持っているんだけど曖昧模糊としてるんだよ。
「こういう二輪車に乗りたい」とかそういう具体的なニーズというのはほとんど持っていないんだよ、
俺たちがそれを形にしてやらないとな!!」
  ある日の社内訓話より

「消費者に不満はないんだよ。
もっともっと便利で気持ちの良いものを作って提案してやる事が大事なんだよ。」
 toto東洋陶器 木瀬社長

「我々が消費者に具体的な欲求を作り出してやる事こそビジネスである」
という認識こそサービス業、製造業を問わず最も重要だと思う。

2007年5月7日月曜日

ブランドの必要条件

商品価値について述べる言葉
●商品特性の面から見れば
ユニーク。オンリーワン。奇抜さ。突出度。アピール性。目立ち度。主張性。先進性。着眼点。希少価値。ストーリー性。トレンド性。ファッション性。注目度。
スマートさ。優しさ。熱情。熱さ。切れ味。早さ。説得力。品位。
おしゃれ度。調和性。バランス。明確さ。可愛さ。美しさ。デザイン。色合い。鮮やかさ。ゴージャス。華やかさ。華。ふわふわ感。浮わつき感。
機能性。動きやすさ。軽さ。強さ。保湿保温性。伸縮性。暖かさ。通気性。肌触り。着心地。風合い。手触りのなめらかさ。しなやかさ。優良品質。堅牢性。耐久性。修理復旧性。再生性。環境性。
●魅力度合いの面から見れば
 優しさ。和み。和やかさ。ストレス緩和。気持ちよさ。適度の緊張感。くつろぎ。落ち着き。休息。
安らかさ。幸福感。飽満性。充実感。満足感。うれしさ。楽しさ。喜び。朗らかさ。屈託なさ。明るさ。
論理性。集中性。熱中度。魔力。魅力。不思議さ。ひらめき。きららかさ。旬度。
立地性。便利さ。時間。空間。わざわざ。遠近。歴史性。因縁。
 晴れやかさ。快活さ。快さ。機転。潤い。控えめ性。好感度。贅沢。奢侈。
永遠性。かわらなさ。伝統。貴族性。上品さ。エレガントさ。気品。高貴さ。香り高さ。高級感。
大衆性。世俗。情熱。執着。欲求。嗜好。好き嫌い。色気。知名度。愛着性。イメージ力。
豊かさ。豊饒さ。富。誠実性。聖性。天性。オーラ。
などなど
商品価値について表現する言葉は様々。
だがこれだけ全ての要素を持つ商品は稀であるかもしくはないはず


ブランド永遠性(変わらない事)とモード現在性、トレンド性(変わる事)は本来両立せず
変わらないでいるためには常に新しさが必要という逆説的事実。
永遠の輝きと今という流行のときめき憧れと近づきがたさ
ヴィトンは壊れない永遠性と言う商品価値と近付きがたい高価格そしてファッション性を調和させた。

品質レベル、感性レベルの象徴としてのヴィトンというブランド名。
ブランドの起源はいつも必ず特権階級の為の贅沢品だったと言う事実。ところがそれが庶民にも近づきやすくなった。

すべてのブランドは伝統という永遠性とファッションというつかの間の輝きという相反するロジックの間をうまくくぐり抜ける綱渡りをしている。ヴィトンは世界一その綱渡りが上手だというわけであろう。

消費者は高価格品でもその価格に見合う商品価値があれば購入する。
安ければ良いというものでもない。誰もが買える商品はそれだけで価値が低下する。
誰もが買える訳ではない商品こそ希少価値の点で差別化できる。
キーワードは差別化であり希少価値である。
だれにでも売らない事を売りものにする

2007年5月4日金曜日

言葉の壁その2

 冗長性と論理性について
ある時学者(国立大学の教授)と実業家(県会議員・兼公的団体の会長)の話を同時に聞く機会があった。
 その講演が終わった後である人が講演を聴いた人達にその講演がどうだったかを尋ねた。
答えは殆どの人が実業家の話が良かったと答えた。
 内容について言えば実業家の方は殆ど中身のない話で政治家に特有の繰り返しのフレーズの多い内容だった。最初の大学教授の話が簡潔かつ論理的で殆ど無駄な言葉を繰り返さないそして内容的にも極めて充実したものだったのにも関わらずである。
 このとき感じたのが、人の話を聞くのにしても受け止める(聞く)側の知識データベースの違いや聞き取り能力、理解能力の違いで伝わり方にこれほどの格差が付くものなのだということであった。
 より印象に残ったのは実業家の話の方だったわけである。
 
 「よく見せて言って聞かせてさせてみて褒めてやらねば人は・・・・。」という言葉を思い出した。

言葉の壁

 母国語と異なる言語で意思の疎通を図ろうとする時、最も困るのは該当する言葉がそもそも存在しない時である。相手の文化にない母国語の言葉の意味を気候風土や生活習慣に始まり色々と回りくどく説明するのは最も骨の折れる仕事になる。
 日本文学のわび、さびの世界、歌舞伎、能、狂言などの日本の伝統芸能特有の言葉、あるいはわさびの辛さ、梅干しのしょっぱさなど日本食だと普通の食べ物の味を表現する言葉などに対応する言葉が外国語に無い場合がそうである。
 それぞれの民族の生活の多様性から生まれるデリケートな表現が固有のそして特有な言葉になる。
 生活や文化のコミュニケーション課程でその環境風土に特有の事物を表現する言葉や概念が生まれる。 
 少し異なるかも知れないが同じ国民同士でもボキャブラリーの格差から意思の伝達不足が生じるのであるから、異なる言語で教養あるいは知的レベルが違いすぎるともうお手上げになるように思う。
 実際そういう経験をした覚えがある人は結構多いのでは無かろうかと思う。

 日本人が江戸時代まで使っていた男女関係の惚れる恋する愛しいと言うような言葉の概念に対して西洋文学翻訳の際に恋愛という言葉が当てられたそうである。これも仕方なく当てはめた言葉であろう事は外国映画の恋愛ものを見れば推察できる。愛という概念は西洋文化特にキリスト教文化圏ではエロスとアガペーの二つに分類されている。一方仏教圏では五つの分類がある。

2007年5月3日木曜日

薔薇の季節

 花はどんな花でも美しいが薔薇はやはり格別だと思う。
 五月は薔薇の季節である。
 クラシックローズ(イングリッシュローズ、オールドローズ)、モダンローズ、クライミングローズ、ランブラーローズ、ミニチュアローズ、、フロリパンダ、ハイブリッドティーほか分類の方法に関わらず種類も豊富。
 香りの良さと見た目の美しさの両方を兼ね備えている点も魅力。
 いっぺん根付くとあまり手間もかからないので(かけた方が良いがかけなくとも育つので)ついほったらかしにしがちだが地植の方が手間がかからず管理が楽である。
 定期的な剪定作業をきちんとやって施肥を忘れなければ良い花を咲かせる事が出来る。
 手間をかければかけるほどそれに見合う形で答えてくれるのも薔薇の魅力である。

庭いじり

今日は五月晴れのいい天気になり、朝から庭先に出て開花前に親類から頂いた君子ランの株分けをしたりシンビジウムの鉢の移し換えをした。
 ホームセンターにラン用の土を買いに出かけたついでに野菜の苗や野菜用の深鉢それと培養土を購入し植えつけた。
 昨年はお店の改装工事で野菜作りどころではなかったので今年は家で消費する分の何割かを自前で収穫したいと考えている。
  ナスやきゅうりなど一昨年は半分位の自給率になった。買うにしてもそれほど高いものではないがやはり新鮮さが全然違う。きゅうりにしろトマトにしろ瑞々し くぱちぱちしているし、農薬などの心配もゼロ。かぼちゃなどは2本の苗でひと夏分が充分にまかなえる。トマトやバジルは取れたてをスパゲッティに使うと皆 が驚嘆する。パプリカも果肉が果物並み。きゅうりは2本の苗から毎日使う分量が賄える。植えつけてから早いうちにつっかい棒を当ててやったり少し基本的な 手間を惜しまなければすばらしい収穫にありつける。 基本的には花つくりと野菜作りはさほど違わないが野菜の施肥は花よりも充分にしなければならないよう だ。花は開花後のお礼肥えを充分にしないと次のシーズンによい花をたくさん咲かせてくれない。