2007年12月31日月曜日

2008年は

 一体どんな年になるのだろうか?
2007年は地震などの天変地異も含めていろいろと大きな事件が続発した。
暮れにはブット元首相が暗殺された。

 様々な事件も結局は突き詰めていけば全ては人間の欲から生じたことである。
 この世の中は全て金と権力が支配している。
 弱肉強食の動物界と同じである。
 特に最近は金と権力の支配者(銀行・政治家・公務員)とその他の人との格差は広がるばかりである。

 釈迦は人間に”少欲であれ”と教えているがその教えを汲んだ仏教界でさえ釈迦の教えに反する様な現代という時代は救いようがないのだろうか?
 仏教の宗派が何であれもう一度原点の釈迦に戻ってその考え方を考証してみてはどうだろうか?

大晦日の大掃除

 今年も自分の書斎の掃除は今日になってしまった。
 毎年大晦日にならないと掃除をする気になれない。
 早くから掃除を済ませても大晦日には既に足の踏み場もないほどになってしまうから
すべての仕事が片づいてからようやく自分の部屋の整理整頓に取りかかる。
 中途半端に処理した整理未了の書類の山と床から積み上げている本を分類整理するとほぼ一日がつぶれてしまう 。
 そうこうするうちにNHKの紅白が始まり少し焦りを感じてくる。
 結局満足行く掃除は未完了のまま手を打って後は元旦の仕事にしようと思うのである。

2007年12月27日木曜日

残すところ後5日

師走も押し詰まってくるとやはり何かと気忙しい。
何だかんだ言っても時間だけは止められない。
正月なんか来なくても良いのにと言いつつやはり新しい年に期待する気持ちもある。
一年の区切りをきちんとつけて、心機一転自分を励まそうとしている自分がいる。
今年はあれもこれも出来なかった、だから来年こそはと思うのはみな同じ気持ちのようである。
年が明けて松の内に一年の計は元旦にありとばかりに年間計画を立ててみる。
しかし最初の気持ちはどこへやら一月もすればもう計画の半分も実行できてないことに気付く。
計画を確実に達成するにはその動機付けがいつも頭の中から消え去らないようにすればよい。
予定を確実に必ず実践していくにはその結果がどうなるかを常にイメージできるようにしておけば長続きする。細かい計画を立てるよりも毎日実践し続けた結果のイメージを頭に思い浮かべる事ができれば途中挫折することなくほぼ達成できる事が多い。

2007年12月7日金曜日

師走

師走も早くも6日が経過。
いよいよ押し詰まりNHKの紅白歌合戦の出場歌手が茶の間の話題になる季節。
 少しは冬らしいお天気の日もあるがまだまだ石油ストーブを炊くほどは寒くなっていない。
 いつもなら10月の初め頃から灯油の準備をしている義母が今年は今日初めて注文を出した。
それでもまだまだ余程の寒さを感じねば火が点ることはないような気配である。
 いつもよりも暮らしやすいと言えばそうなのだけれども季節の巡りがこうまでずれてくると肩すかしを食った感じを通り越して気抜けしてしまう。

2007年12月1日土曜日

経済的豊かさの代償

 我々は経済的な豊かさと快適な生活を手に入れた見返りにもっと大切な何かを失いつつあるのでは?時々こう自問している人も多いのではないだろうか?
 モノやサービスが豊富になることで生活が豊かになったとされる現代社会。
 反面地球環境はどんどん悪化している。
 地球温暖化の主な原因とされる二酸化炭素は快適な生活の代償として増え続け、長い間エアコン冷媒であったフロンガスはオゾン層を破壊し地球上に降り注ぐ紫外線の増大をもたらした。
 それでも後進国は光化学スモッグの原因物質である亜酸化窒素や亜硫酸ガスを大量に含んだ工場排気ガスをまき散らす事を止めないしアメリカのような先進国の中にも経済効率優先で二酸化炭素排出量を規制する京都議定書を批准しない。
 いわば地球の自殺行為を助長しているようなものだ。
 今年は暖かい。せっかくだからいつもより石油ストーブを焚き始める時期をうんと先延ばしにしようと思う。いくらかでも二酸化炭素の排出量の削減に貢献できるだろうから。

青春とは・・サミュエル・ウルマン

青春とは優れた想像力、たくましき意欲、燃ゆる情熱、怯懦を退ける勇猛心、安易を振り捨てる冒険心である。
サミュエルウルマンのこの詩を初めて知ったのは子供の中学時代の学校から与えられた副読書であった。
以下全文:

青春とは人生の或る期間を言うのではなく心の様相を言うのだ。
優れた創造力、逞しき意志、炎ゆる情熱、怯懦
却ける勇猛心、
安易を振り捨てる冒険心、こう言う様相を青春と言うのだ。
年を重ねただけで人は老いない。理想を失う時に初めて老いがくる。
歳月は皮膚のしわを増すが、情熱を失う時に精神はしぼむ。
苦悶や、狐疑や、不安、恐怖、失望、こう言うものこそ恰も長年
月の如く人を老いさせ、精気ある魂をも芥に帰せしめてしまう。
年は七十であろうと、十六であろうと、その胸中に抱き得るものは何か。
曰く驚異への愛慕心、空にきらめく星辰、その輝きにも似たる
事物や思想に対する欽仰、事に処する剛毅な挑戦、小児の如く
求めて止まぬ探求心、人生への歓喜と興味。
  人は信念と共に若く 疑惑と共に老ゆる。
  人は自信と共に若く 失望と共に老ゆる。
  希望ある限り若く  失望と共に老い朽ちる。
大地より、神より、人より、美と喜悦、勇気と壮大、そして
偉力の霊感を受ける限り人の若さは失われない。
これらの霊感が絶え、悲嘆の白雪が人の心の奥までも蔽いつくし、
皮肉の厚氷がこれを固くとざすに至れば、この時にこそ
人は全くに老いて神の憐れみを乞うる他はなくなる。

人間の魅力と仕事の能力

は実はあまり関係がない。むしろ逆比例する要素かも知れない。
 この事にきちんと気付いて(その認識を日頃の生活で生かして)いる人がどれ程いるだろうか?
 世の中仕事が出来れば万事オーケーの効率主義がまかり通っている。
 今を時めくグローバリゼーションの考え方も元はと言えば人間の魅力や個性とは関係ない合理主義に基づく考え方が基本にある。
 競争に負けないためにグローバル化を進めなければならないという物事の経済効率的な面からのみの発想は人間の個性や民族性そして国民性という固有の文化まで破壊に導く力を孕んでいる。
 能率主義効率主義成果主義営利主義がもたらす結末は殺伐たるものになるに違いない。
 働くことが生きる喜びに結びつく事なく、単に稼ぐことを目的とする苦痛でしかなくなるならいつかがんばりにも限界が来ると思う。
 釣りバカ日誌のハマちゃんを見て共感するのは皆内心ホッとするからである。
 

格の違い

 家格・人格・風格と格の付く言葉は多い。
家格は先祖代々受け継いでいるその家の伝統的風習や流儀から生まれる家柄に対する評価と言えるし、その家に育つ人間の人格形成にも大きな影響を与える。
 だからこそ昔から続く古い家ほどそれなりの伝統や格式を持っていることが多い。
 名家と言われる旧家にはそれなりの理由があるのである。
 歴史的に長い時間をかけて育まれてきた伝統や習慣が全体として格式というものになる。
 代を重ねる毎に先祖から受け継いだ小さな智慧が次第に蓄積されやがて大きな智慧となる。
 こうして知性と感性の財産としての格式の違いが生まれる訳である。
 こういう裏付けがあるとないではその家で育つ者に生じる自信が違って来る。
 旧家育ちに自信家やより賢い智慧を持った者が相対的に多い理由はこの辺にあると思う。

198年ぶり噴火から17年

 雲仙普賢岳は平成2年11月17日に噴火したが、まもなく活動は低下した。
 実はこの年の4月、長男が長崎市内の私立中学に入学、土日に送り迎えをしていて、土曜日午後長崎からの帰り道、愛野展望台の背景に雲仙普賢岳の山頂に白煙が上がるのを目撃したのが奇しくも噴火の始まりだった。
 その年はクリスマスのイブに息子達のピアノの先生の協力を得てお店を開放して盛大にクリスマスパーティを行ったのだが、翌年平成3年2月12日再び噴火が始まり、5月15日には水無川で最初の土石流が発生した。 5月20日に溶岩ドームが出現、5月26日、6月3日の相次ぐ火砕流により死傷者、行方不明者多数が発生した。
 北風の吹く秋から冬にかけて半島中が重たい質の火山灰の降灰を受け窓も開けられない状態になった。梅雨時の火山灰を含んだ泥水は車のワイパーでも拭ききれないほどの重たさだった事を思い出す。
 毎年開催する予定だったクリスマスパーティもこの事でやむなく中止せざるを得なくなった。
 結局その後一度も開催しないまま17年を迎えた。

今日から師走とは言え

全く実感が湧かない。
 小春日和に恵まれすぎて庭のツツジもちらほら狂い咲き。
 異常なくらいに繁殖して花がまだ咲いているセイタカアワダチソウ。
 これも今年は異常なくらいに目立って大きく成長し存在を主張しているツワブキの黄色い花。
草花の生長を見ていると明らかにいつもと風情が異なる。
 温暖化の影響で天候が穏やかすぎるのだろう。
いつもなら寒にやられて疾うの昔に枯れ果てている筈の花が咲き続けている。
 そういえば彼岸花もいつまでも生き生きと咲いていたし、道沿いの真っ赤なカンナもいつもより鮮やかな色でいつまでも目立っていた気がする。
 中庭の草花や植木は水不足に気付かずに今年は枯らしてしまったものもあるほど雨も少なかった。