2007年6月27日水曜日

夏本番

梅雨の合間の太陽の光が目に眩しい。
 夏らしい熱光線に庭の草木も負けじと成長スピードが増したようである。
 うっかり水不足にならないようにしないとたちまち日に灼けて枯らしてしまいそうである。
 地植えのものはさほど水不足に陥る事は無いが鉢植えの方は鉢の温度も上昇するので蒸散する水分も多い。
 6月も残りあと4日で7月。 いよいよ本格的な夏到来である。

電子辞書

昨日待望の電子辞書が届いた。これまでの英英辞書付きのものも含めて6代目になる。
 フランス語中心の辞書だが後から他の国の辞書も追加登録できるのでヨーロッパ旅行など多言語に渡る会話が必要なときに重宝である。
  今回は追加辞書に「和伊・伊和中辞典」と「ひとり歩きのイタリア語自遊自在」それに「ひとり歩きの中国語自遊自在」を取りあえず選んだ。中国語は近いうち に上海にいく予定なので少しは耳を慣らしておこうと思う。本体メモリーにまだ余裕があるのであとでスペイン語とドイツ語も追加する予定である。足りなくなればメ モリーを追加すれば済むので10カ国語でも収まるので便利である。
 NHKの外国語会話の番組は殆どの国の言葉をある程度の期間は視聴した経験は あるのだけど英仏伊以外全く身に付いていない。しかしいざとなったら辞書や会話文例(しかも音声付きの)があれば心強いだろうと思う。 フランス語が基本 の辞書にしたのはフランス語の音声対応がなされているので練習するにもリエゾンや音抜けなどの発音がきちんと正確に確認できる点を重視したためだ。
 イタリア語の方が使う機会は圧倒的に多いのに基本辞書をフランス語の方にしたのはそんな理由からである。イタリア語の発音は基本母音がスペイン語と同様に日本語式発音でも充分である。
 だから辞書の音声対応までは必要ないと考えた次第である。韓国語は今毎月送られてくる「スピードラーニング」で聞き取り訓練をしている。なかなか時間が取れないので上達しないけれどもいつかはと思っている。

2007年6月24日日曜日

生活道路の通行止め

 勝手にメインの通りを真っ昼間から通行止めにして工事をされたりしてはたまったものではない。
 本来、道路の通行止めなどは所轄の警察署の許可も簡単には下りないはずなのだが、もう4年にもわたって町内の下水道工事を理由に断続的に行われている。
 20年以上も前の事だが街宣車を使って売り出しの宣伝放送を行うために道路使用許可申請書を出した事がある。 かなり厳格な審査があったような記憶があるが今はどうなっているのか?
 一度警察署に問い合わせてみようと思っているがなかなか時間がないのでそのままである。
 昼間の通行止めがその道路の利用者にとってどれ程の迷惑を被るか?
 私どものようにお客さんあっての商業者にとって生活道路が通行止めで通れない場合の不自由さと不利益は一般の人の比ではない。
 来店客の増減が売上額の増減にストレートに反映される販売業は通行止めで来店客が半減すれば売り上げも比例的に減少するのである。
 因みにこの通行止め一年目での売り上げ減少は4-5千万円に上り、今日まで通算すれば一億数千万円になり直接の見込み利益分の被害だけでも5千万円近くにはなる。
問題はこの影響が客離れとなって後々まで尾を引いていく事である。
 
 

2007年6月23日土曜日

ヴィジョン

 実現可能な夢の事をヴィジョンという。
 誰にでも夢はあると思うがそれが実現するためには可能性についてまず考える必要がある。
 その実現可能性を科学的に検討する方法の事をフィージビリティスタディという。
夢からヴィジョンそして具体的に実現可能な計画へと検討を進めていくのである。
 その過程で色々な問題点が分かってくる。
そしてそれらを解決するための方法を最近流行の言葉で言えばソリューションという。
 最近はコンピュータ技術を含めたITの進歩でソリューションも多様化している。
 いろいろ勉強すればするほど人より楽をして問題解決をする事が出来る。
 いつになっても勉強は必要なのだから楽しみながらやればよい。 
 良い人生を生きていく上でもアルゴリズムは必要である。

人間の卑しさ

 政治に関われば必然的に人間の卑しさに向かい合わねばならない。
政治はすべて利害が絡むからだ。
利害が絡むという事は欲と欲のぶつかり合いの現場に立ち会わねばならないという事を意味する。
 欲と欲のぶつかり合いというのは人間の卑しさと卑しさのぶつかり合いである。
どちらが上手にその卑しさをオブラートにくるみ、上品に隠蔽できるか。つまり、
 自分の内なる欲求を満たすために権謀術数を弄し相手をいかに論理的に屈服させる事が出来るか。
利害の政治的調整は最終的に権力のある者、言い換えれば周囲を従属させうる側に常により多くの利をもたらす。
そして権力のお陰で勝者の卑しさは上品に満たされ、敗者の卑しさは不満となって燻る。
敗者の不満が過度に燻れば革命や反抗など、今時ならテロ行動などの形で表出する。
古今の政治闘争は権力抗争の歴史であるが、それは権力のあるなしが富の獲得に密接に関わっているからである。
 卑しさというのは欲が表に出た状態を言う。
 少欲な人には卑しさは感じ取れない。

 般若心経には智慧(般若)を働かせて悟ろうではないか、あなたが不幸なのはつまらぬ欲(こだわり)のせいですよ、「欲を捨てよ」あるいは「少欲であれ」と説いている。

初体験

といっても処女や童貞を喪失する事ではない。
 生まれて初めての経験は全てそう呼ぶ。
 最近世の中の変化が激しくてついて行くのが大変だ。
 携帯電話や家電品など次から次と生み出される新製品。
 IT技術の進歩が生み出す各種のハイテク機器。
 政治的な力でいきなり方向転換された福祉などの社会制度。
 全て初体験のモノばかりである。
 ハイテク機器などの便利さを追求しようとすると限りない学習が必要である。
 田舎暮らしにはあまり必要性を感じないでも良かったものも都会並みになってきた。
 日本全国田舎の隅々まで全国チェーンの家電店、ホームセンター、CDレンタルショップやブックストアー、飲食チェーンなどなどを初め、大きなショッピングセンターも進出している。
 一昔前のアメリカよりも国土が狭い分多店舗展開のスピードも密度も凄まじい勢いである。
 久し振りの所にでかければ必ず何らかの初体験が出来るご時節である。

洞察力と感性

人が気付く遥か以前に物事の本質を見抜く能力の事を洞察力という。
何か変だあるいはおかしい、何かありそうだと気付く能力の事である。
 洞察力が発揮されるためにはいくつか条件がある。
 先入観を持たない事、対象となる物事に対する認識が正確である事、論理的な思考能力などである。
 繊細な気配りや注意深い観察力なども必要だ。総合すれば感性と言い換えられるかも知れない。

 実業の世界でも人より先に世の中の変化を読み取れる能力がものを言う。
 これからの社会がどういう方向に向かうのか、科学技術の進歩にも注目しておく必要がある。
 技術の進歩が社会の仕組みを大きく変えていく原動力になる事が多いからだ。
人より一足先に変化に気付き、新しい事業を立ち上げた事で先行利益を上げる例は数知れない。
 これも洞察力の賜といえる。
 
 政治的な駆け引きのうまい人間は人の心理をうまく読み取る能力に秀でている。
 政治家の能力は人の心を洞察できる能力である。
 

責任組織の内と外

 最近世間を賑わせている社会保険庁の問題。
公務員の仕事に対する意識の持ち方を象徴している事件である。
責任意識の欠如あるいは責任集団全体の無意識が招いた不祥事といえる。
特に誰かが悪いというわけではないと言う曖昧責任の仕組みと、
管理責任者を監督すべき省庁のTOPにいる政治家のあり方に問題がありそうである。
 とまれ子細がどんどん明らかにされるにつれ国民の不安と不満は益々募るばかりである。

良心と罪の意識

 良心というものと無縁の人がいる(らしい)。
どうも思考回路が普通の人とは違うらしい事に気付いたのはある事がきっかけだった。
 
 曰く言い難い人物。
 世間では世渡り上手だとか世話好きでお世話になったと言われいつもニコニコしている。
だから一見お人好しの世話好きにも見える。しかしこのお世話の申し出を丁重に断るとどうなるか。
 怒りだして敵意をむき出しにする。何故か。裏の計算が狂ったからである。
 どんな人間でも一見親切この上ない申し出に最初は感謝する。ところがどっこい必ず裏がある。
 狡猾な計算ずくの親切ごかしである事に気付かぬ人は多い。
あとでたんまりと付けを払わされる事になっていてもまだ気付いてない人さえいる。
 選挙の票集めが目的の場合などは直接金を出すわけではないので尚更だ。
日頃世話になっているからと投票を約束する。これは賄賂を貰って投票するのと何ら変わらない。
 政治の世界はそんなものだ、それが世間だと言ってしまえばそれまでであるが。
こういう形で結果的に人に気付かれずに公的利権を食い物にする議員などの政治家がなんと多い事か。
 政治家と言うより政治屋である。
 「人のお世話にならぬよう、ひとのお世話をするように、そして報いを求めぬよう。」
 後藤新平の言葉である。

2007年6月20日水曜日

このところ何かと忙しく

ブログに費やせる時間さえなかなか取れないでいる。
 Todo予定は山積しているがどれもこれもしようと思うと却って手に着かなかったりする。
 物置を増築したり、陳列テーブルを作成したり、庭木の手入れや挿し木をしたりと日常の雑事でも結構まとまった時間を要求する仕事ばかりである。通販サイト用の商品開発などの新しい仕事も増えた。
 本もあっという間に溜まって行く。
 新聞は毎日だし月刊雑誌や週間隔週刊の雑誌も少し油断するとたちまち山になる。
先日のように4日間も続けて留守にすると後で読むのに時間を取られるだけでなくすべての予定が後の方にずれ込む事になる。
 メールも毎日50通は下らないので4日もいないと200通を超えてしまう。返事を書く必要があると尚更である。
 仕事で出かける時はパソコンは極力持って行くようにしているが持って行っても出先でネット接続ができない場合もあるのでこういう状況はままある。
 体が3つか4つあればと思う。

2007年6月18日月曜日

カッパ橋界隈

2年ほど前に東京のカッパ橋界隈を訪れた事がある。
 親友がまだ東京に居を構えていた頃で誘って田原町まで。
 色々な道具屋が軒を連ねている様は以前はもっと賑わいと凄みがあっただろうなと思いながら歩いた。当日は平日だったせいもあり人通りもまばらだった。
 料理用の見た事もないような道具など昔の金物屋で扱っていた商品が軒並みにかかっている。
 全部を丁寧に見るのはとてもではないが不可能である。
 ほどほどにして切り上げる事にした。
 染色用のモリブデン鋼の大鍋を購入したかったのであるが、高価すぎて品定めが出来ずすごすごと退散したと言うべきであろうか。
 今日今手元にその時に購入をためらった大鍋がある。3年がかりで購入した事になる。
 鍋と言っても直径50センチ以上もあり、100リットル以上の容量の大鍋でアルカリの腐食に強いと言う。
 染料も化学染料には様々なタイプのモノがあるの通常の鍋では腐食してすぐに使い物にならなくなるだろう。
 草木染めなど自然の植物から取った染料ならまったく問題ないと思うが・・・・。

2007年6月4日月曜日

卯の花

 が満開である。
先日町に出かけたついでにホームセンターの植木売場で見かけて購入したものだ。
 最近季節の移ろいに会わせて咲く花々に興味を持って事ある毎に安い苗を購入して帰る。
春夏秋冬の季節の移ろいに会わせて咲き誇ってくれる花にはただただ感謝である。
 疲れた心身には極めて大きな癒しをもたらしてくれる。
 自分だけでなく周りの人達、皆にも幸せな気分になって貰える。

 いつか一年中花の咲かない時が全くないような庭を作りたいものである。
 

天皇制について

 天皇制についての議論は少々禁忌的な見方をする人が多い。
 しかし、その存在価値について本当に分かっている人がどれ程いるのか時々疑問に思う。
 ある時義理の叔父からその必要性について問われた事がある。
かなりのインテリジェンスの持ち主である叔父からの出し抜けの質問だったので真意を測りかねたが取りあえず、我も我もと言う小賢しい人間ばかりが多くて争いが絶えない状態にならないためにもそういう尊い存在が必要ではないのでしょうか、と答えた。
 権力の争いは人間の世界では無くなる事は無い。
だからこそ頂点に立とうとする欲求に諦めをつけさせる意味でも絶対的な権威が必要なのだという意味の事を言った記憶がある。
 共産主義の誤りは多くの社会学者の様々な指摘にも変わらず相変わらず幻想の信奉者が多い。
 彼らの大方はお人好しのアマちゃん達ではあるがこれは気付きの問題だからどうにもならない部分がある。
 共産主義体制下でも所詮権力のありかが変わるだけである、という事実。
人間性の本質についてもう少し深く掘り下げて考えれば気付くのではと思う。

市議会中継

をインターネットカメラでやってはどうだろうか。
 現在議会の開催中の質疑応答についてはケーブルテレビ中継録画で行われているが土木や建設などの各委員会の内容までは中継していないようである。
 今最も市民の監視が必要な委員会が建設や土木関連の委員会である。
 言うまでもなく工事の入札にまつわる談合などを含めて最も腐敗不正が起こりやすい所である。
 細かいチェックは第三者を含めてもう少し丁寧にやって行くべきである。
 市民オンブズマン組織を作ってやるのも良いし、ボランティアでやっても良い。
 人手の要らないインターネットカメラで委員会の質疑応答までつぶさに監視すれば腐敗が何処で起こりそうかも把握しやすい。
 インターネットカメラは最近ではタダ同然の費用で導入できる。
 回線は既に庁舎にあるLAN回線を使えば良い。
 見たい人はいつでもインターネット上で傍聴できる。
 委員会で審議される、より具体的な情報は直接市民生活に関わってくる事である。
 各種行事や工事日程などの情報ももっときめ細かく発表出来る。
 あるいは市民の意見を求める手段としても有用である。
 何しろ費用がかからない。極端な話、広報誌なども必要でなくなる。
 googleなどを使用すれば投書箱も広報もタダで設置できる。
 

通販サイトの未来

 今後インターネットでのショッピングは動画像を見てあたかも自分がお店で買い物をしているように出来るようになる時が来る。
 今でも動画像を音声付きで消費者に届ける事は可能である。
 自宅にいながらにして買い物が出来る条件を列挙してみる。
 商品を手に取ってみる事が出来るように鮮明な画像。
 カメラまたは画像を回転させて上下左右斜め上下から完璧に見せる。
 素材がアップで見える。
 つまり繊維の折り方や風合いまでアップにすれば分かる、などあげればきりがないが、
 要するに商品がそこになくともあたかも目の前にあるかのような演出が出来る事。
 手にとって触る代わりにコンピュータのマニピュレータ制御とレオロジーの技術で臭いや歯ごたえ歯触り、そして手に持ったときの感触などまでが分かるのも時間の問題である。

三ま世代

 マネー・ひ・なか
 この三つを持っている人達をこう呼ぶそうである。
 退職の時期を迎えた団塊の世代こそがサンマ世代の構成要素である。
 今後彼らの行動が世の中の変革していく事に異論がある人はいないだろう。
 これまであくせく働いてきた分をのびのびと自分自身の為に振り向ける事が出来れば結果的に充実した人生が送れるだろう。
 

正しい判断と賢い判断

正しい判断が世間的に賢い判断だとは限らない。
 言うまでもない事だが何か正しいと思って行動した結果、世間的に見れば正しくないつまり全く愚かな判断だったと言うような事はよくある。しかし愚かだったという判断基準はあくまでも世間的社会的な判断基準に照らしての事である。
 長い人生の中では正しいか間違っているか確信が持てないまま、正しいと思ってした判断が逆に誤りだったりする事も確かに時々はあると思う。真実は反対に世間の方が間違っているにもかかわらず。
 けれどもここで正しい判断が出来なかった自分自身を責めてみてもどうなるものでもない。
 大切なのは自分自身の思考過程がそういう判断を下した事をじっくりと検証する事。
 世間が間違っている場合だってあるのだと思って検証してみる。
すると全く反対に世間が間違っていたなどという事もままあるのである。
 ドストエフスキーの”白痴”という小説をご存じだろうか。
 世間では白痴扱いされている子が実は普通の人に見えない本質をあるいは真実を全く透明な眼力で見抜いていたと言う事実。
 世間なんてこんなものであると思う事も大切である。