2007年12月31日月曜日

2008年は

 一体どんな年になるのだろうか?
2007年は地震などの天変地異も含めていろいろと大きな事件が続発した。
暮れにはブット元首相が暗殺された。

 様々な事件も結局は突き詰めていけば全ては人間の欲から生じたことである。
 この世の中は全て金と権力が支配している。
 弱肉強食の動物界と同じである。
 特に最近は金と権力の支配者(銀行・政治家・公務員)とその他の人との格差は広がるばかりである。

 釈迦は人間に”少欲であれ”と教えているがその教えを汲んだ仏教界でさえ釈迦の教えに反する様な現代という時代は救いようがないのだろうか?
 仏教の宗派が何であれもう一度原点の釈迦に戻ってその考え方を考証してみてはどうだろうか?

大晦日の大掃除

 今年も自分の書斎の掃除は今日になってしまった。
 毎年大晦日にならないと掃除をする気になれない。
 早くから掃除を済ませても大晦日には既に足の踏み場もないほどになってしまうから
すべての仕事が片づいてからようやく自分の部屋の整理整頓に取りかかる。
 中途半端に処理した整理未了の書類の山と床から積み上げている本を分類整理するとほぼ一日がつぶれてしまう 。
 そうこうするうちにNHKの紅白が始まり少し焦りを感じてくる。
 結局満足行く掃除は未完了のまま手を打って後は元旦の仕事にしようと思うのである。

2007年12月27日木曜日

残すところ後5日

師走も押し詰まってくるとやはり何かと気忙しい。
何だかんだ言っても時間だけは止められない。
正月なんか来なくても良いのにと言いつつやはり新しい年に期待する気持ちもある。
一年の区切りをきちんとつけて、心機一転自分を励まそうとしている自分がいる。
今年はあれもこれも出来なかった、だから来年こそはと思うのはみな同じ気持ちのようである。
年が明けて松の内に一年の計は元旦にありとばかりに年間計画を立ててみる。
しかし最初の気持ちはどこへやら一月もすればもう計画の半分も実行できてないことに気付く。
計画を確実に達成するにはその動機付けがいつも頭の中から消え去らないようにすればよい。
予定を確実に必ず実践していくにはその結果がどうなるかを常にイメージできるようにしておけば長続きする。細かい計画を立てるよりも毎日実践し続けた結果のイメージを頭に思い浮かべる事ができれば途中挫折することなくほぼ達成できる事が多い。

2007年12月7日金曜日

師走

師走も早くも6日が経過。
いよいよ押し詰まりNHKの紅白歌合戦の出場歌手が茶の間の話題になる季節。
 少しは冬らしいお天気の日もあるがまだまだ石油ストーブを炊くほどは寒くなっていない。
 いつもなら10月の初め頃から灯油の準備をしている義母が今年は今日初めて注文を出した。
それでもまだまだ余程の寒さを感じねば火が点ることはないような気配である。
 いつもよりも暮らしやすいと言えばそうなのだけれども季節の巡りがこうまでずれてくると肩すかしを食った感じを通り越して気抜けしてしまう。

2007年12月1日土曜日

経済的豊かさの代償

 我々は経済的な豊かさと快適な生活を手に入れた見返りにもっと大切な何かを失いつつあるのでは?時々こう自問している人も多いのではないだろうか?
 モノやサービスが豊富になることで生活が豊かになったとされる現代社会。
 反面地球環境はどんどん悪化している。
 地球温暖化の主な原因とされる二酸化炭素は快適な生活の代償として増え続け、長い間エアコン冷媒であったフロンガスはオゾン層を破壊し地球上に降り注ぐ紫外線の増大をもたらした。
 それでも後進国は光化学スモッグの原因物質である亜酸化窒素や亜硫酸ガスを大量に含んだ工場排気ガスをまき散らす事を止めないしアメリカのような先進国の中にも経済効率優先で二酸化炭素排出量を規制する京都議定書を批准しない。
 いわば地球の自殺行為を助長しているようなものだ。
 今年は暖かい。せっかくだからいつもより石油ストーブを焚き始める時期をうんと先延ばしにしようと思う。いくらかでも二酸化炭素の排出量の削減に貢献できるだろうから。

青春とは・・サミュエル・ウルマン

青春とは優れた想像力、たくましき意欲、燃ゆる情熱、怯懦を退ける勇猛心、安易を振り捨てる冒険心である。
サミュエルウルマンのこの詩を初めて知ったのは子供の中学時代の学校から与えられた副読書であった。
以下全文:

青春とは人生の或る期間を言うのではなく心の様相を言うのだ。
優れた創造力、逞しき意志、炎ゆる情熱、怯懦
却ける勇猛心、
安易を振り捨てる冒険心、こう言う様相を青春と言うのだ。
年を重ねただけで人は老いない。理想を失う時に初めて老いがくる。
歳月は皮膚のしわを増すが、情熱を失う時に精神はしぼむ。
苦悶や、狐疑や、不安、恐怖、失望、こう言うものこそ恰も長年
月の如く人を老いさせ、精気ある魂をも芥に帰せしめてしまう。
年は七十であろうと、十六であろうと、その胸中に抱き得るものは何か。
曰く驚異への愛慕心、空にきらめく星辰、その輝きにも似たる
事物や思想に対する欽仰、事に処する剛毅な挑戦、小児の如く
求めて止まぬ探求心、人生への歓喜と興味。
  人は信念と共に若く 疑惑と共に老ゆる。
  人は自信と共に若く 失望と共に老ゆる。
  希望ある限り若く  失望と共に老い朽ちる。
大地より、神より、人より、美と喜悦、勇気と壮大、そして
偉力の霊感を受ける限り人の若さは失われない。
これらの霊感が絶え、悲嘆の白雪が人の心の奥までも蔽いつくし、
皮肉の厚氷がこれを固くとざすに至れば、この時にこそ
人は全くに老いて神の憐れみを乞うる他はなくなる。

人間の魅力と仕事の能力

は実はあまり関係がない。むしろ逆比例する要素かも知れない。
 この事にきちんと気付いて(その認識を日頃の生活で生かして)いる人がどれ程いるだろうか?
 世の中仕事が出来れば万事オーケーの効率主義がまかり通っている。
 今を時めくグローバリゼーションの考え方も元はと言えば人間の魅力や個性とは関係ない合理主義に基づく考え方が基本にある。
 競争に負けないためにグローバル化を進めなければならないという物事の経済効率的な面からのみの発想は人間の個性や民族性そして国民性という固有の文化まで破壊に導く力を孕んでいる。
 能率主義効率主義成果主義営利主義がもたらす結末は殺伐たるものになるに違いない。
 働くことが生きる喜びに結びつく事なく、単に稼ぐことを目的とする苦痛でしかなくなるならいつかがんばりにも限界が来ると思う。
 釣りバカ日誌のハマちゃんを見て共感するのは皆内心ホッとするからである。
 

格の違い

 家格・人格・風格と格の付く言葉は多い。
家格は先祖代々受け継いでいるその家の伝統的風習や流儀から生まれる家柄に対する評価と言えるし、その家に育つ人間の人格形成にも大きな影響を与える。
 だからこそ昔から続く古い家ほどそれなりの伝統や格式を持っていることが多い。
 名家と言われる旧家にはそれなりの理由があるのである。
 歴史的に長い時間をかけて育まれてきた伝統や習慣が全体として格式というものになる。
 代を重ねる毎に先祖から受け継いだ小さな智慧が次第に蓄積されやがて大きな智慧となる。
 こうして知性と感性の財産としての格式の違いが生まれる訳である。
 こういう裏付けがあるとないではその家で育つ者に生じる自信が違って来る。
 旧家育ちに自信家やより賢い智慧を持った者が相対的に多い理由はこの辺にあると思う。

198年ぶり噴火から17年

 雲仙普賢岳は平成2年11月17日に噴火したが、まもなく活動は低下した。
 実はこの年の4月、長男が長崎市内の私立中学に入学、土日に送り迎えをしていて、土曜日午後長崎からの帰り道、愛野展望台の背景に雲仙普賢岳の山頂に白煙が上がるのを目撃したのが奇しくも噴火の始まりだった。
 その年はクリスマスのイブに息子達のピアノの先生の協力を得てお店を開放して盛大にクリスマスパーティを行ったのだが、翌年平成3年2月12日再び噴火が始まり、5月15日には水無川で最初の土石流が発生した。 5月20日に溶岩ドームが出現、5月26日、6月3日の相次ぐ火砕流により死傷者、行方不明者多数が発生した。
 北風の吹く秋から冬にかけて半島中が重たい質の火山灰の降灰を受け窓も開けられない状態になった。梅雨時の火山灰を含んだ泥水は車のワイパーでも拭ききれないほどの重たさだった事を思い出す。
 毎年開催する予定だったクリスマスパーティもこの事でやむなく中止せざるを得なくなった。
 結局その後一度も開催しないまま17年を迎えた。

今日から師走とは言え

全く実感が湧かない。
 小春日和に恵まれすぎて庭のツツジもちらほら狂い咲き。
 異常なくらいに繁殖して花がまだ咲いているセイタカアワダチソウ。
 これも今年は異常なくらいに目立って大きく成長し存在を主張しているツワブキの黄色い花。
草花の生長を見ていると明らかにいつもと風情が異なる。
 温暖化の影響で天候が穏やかすぎるのだろう。
いつもなら寒にやられて疾うの昔に枯れ果てている筈の花が咲き続けている。
 そういえば彼岸花もいつまでも生き生きと咲いていたし、道沿いの真っ赤なカンナもいつもより鮮やかな色でいつまでも目立っていた気がする。
 中庭の草花や植木は水不足に気付かずに今年は枯らしてしまったものもあるほど雨も少なかった。

2007年11月23日金曜日

父の事

 私の父は小さい頃から病弱だったらしい。
 幼い頃から小児喘息、成長してからは気管支拡張症と、苦しそうに咳き込むときの独特の響きは遠くからでも父と認識できた。
 最初公務員になった理由も体が弱いというその辺の事情かららしい。
 後に当時の農協組合長に請われて農業技術者だった父が農協に転職したことは経済的にも精神的にも家族にとっては結果的に後々大きな負担になった。
 教師だった母は戦後の食糧難の経験から農業経営の観点から見れば充分とは言えない相続した農地を管理していくために教職を退き農業をすることになった。
 体が健康だった母が夫婦でやってもしんどいかと思える広さの農地を手伝いの人を雇っていたとはいえたった一人で管理して来たのは本当に大変なことだったと思う。
 小中高校と学校の暇暇に家事の手伝いをしてきた経験から言えば女手一つでよくもまあこれだけの事をやってこれたものだと只感心するばかりである。
しかしそのお陰で子供四人とも最高学府に学ぶことが出来たのである。

2007年11月3日土曜日

祖父のこと

 私の父方の祖父は土建業を営んでいた。元々は赤貧から身を起こした石工であったという。澄んだ目をした温厚な姿は気品があり今もはっきりと思い出すことが出来る。
  太平洋戦争前には軍神と崇められた橘中佐を祀る県社橘神社の造営や仁田峠登山道路の新設に関わる仕事などで財をなしたそうだ。
 他に港湾建設の仕事特に難工事には決まって駆り出されるほどの技術を持っていたらしい。
 ただ入札制度などの政治的な関わりを嫌い3人いた息子の誰にも後を継がせなかった。
 長男は銀行員、次男である父は公務員、三男は教育者になった。
 幼い頃、本家の別棟にある祖父の隠居所の1階には発破、今で言うダイナマイトの信管が整理されたハンマーや石のみなどの他の道具の中に整然と置かれていたのを目撃したことがある。
 我が家の中庭に井戸を掘る必要が出来たとき祖父のかつての部下の方が信管で大きな岩をいとも簡単に爆破粉砕しあっという間に井戸が出来たことは未だ記憶に新しい。
 幼稚園から小学生のころ、この祖父に連れられてあちこちに行った記憶がある。
 幼稚園時代には所有していた山の木の生育具合を見に、タクシーで持ち山の入口近くまで行き、そこからは歩いて山の境界線を確認しながら一周したり、雑木林の中に複数ある炭焼き釜の炭作りの最中の釜を点検したり様々な経験をさせて貰った。
 何度かそんな経験をしたのだが同行したのは決まって本家の長男と分家の長男の私の二人だけだった。 後から考えてみれば、福岡のスポーツセンターで行われていた大相撲九州場所にも連れて行かれたのはその二人だけだった。 事ある毎に従兄弟(本家の長男)と二人、何処にでも連れて行って貰ったような気がする。 そんな山の一つが父を経由して遺産の相続という形で孫である僕たち兄弟姉妹のものになった。 僕が幼稚園時代に祖父の手ほどきを受けて植林した杉と檜がもう五十歳以上になり周囲1メートル近い。


 
 

花のある人ない人

俗に花のある人、ない人という言葉がある。
 いわゆるぱっと見たときにはっとさせられる美しさやオーラを持った人の事である。
 世阿弥の風姿花伝のなかに書かれている花も本質は同じだろうと思う。

 花は感動やエモーションの根源になる要素であり、生きていく上でも最も大切にして生きていかなければならないものであると思う。

2007年10月28日日曜日

デボラ・シニバルディ

 D4Jeansのデザイナーである。
 彼女はセリーヌのニットデザイナーとして活躍。
 定評ある物作りは次第に浸透しつつある。
 日本ではセカンドラインとしてのこのカジュアルブランドが初めてのデビューである。
 さすがに洗練された物作りで他の商品と並べた時に花を感じさせてくれる。
 当店ではまだスタートしたばかりだが店頭での評判はなかなか良いようだ。
今後に大いに期待している。
 
 

2007年10月27日土曜日

雫舞天翔

を頂いた。
 霧島銘水仕込みの焼酎である。
鹿児島は小正醸造株式会社謹製の鹿児島限定品である。
 黄金千貫という品種のさつま芋を原料に霧島山系の天然地下水で仕込み黒麹で醸造したまろやかな焼酎である。
 じつは40年も前の大学時代に発酵学講座の本郷教授の講義で薩摩にメロー小鶴ありという事を聴いて以来、この何年も寝かして熟成された焼酎は目に付けば購入して飲む事にしていたのである。
 その同じ醸造元の焼酎を期せずして頂いた。
 勿論誰にも飲ませず一人で楽しんでいる。
 メロー小鶴より香りが柔らかい。芋焼酎という強烈さは無い。
 庭先で取れたバジルの葉を入れて飲んでいる。
 梅干しの梅を入れたお湯割りとはひと味違う。

 

COME PRIMA コメプリマ

若かりし頃よく聴いたカンツォーネの歌詞である。
先日の親類の結婚式のスピーチに新郎新婦の将来の幸せを念じて冒頭部分のみを引用した。
原文の日本語訳があまり気に入らなかったので自分なりに意訳した。
<Come Prima>
Come prima 初めのように
piu di prima 初めよりもっと
t'amero あなたを愛するだろう
Per la vita 二人の人生の為に
la mia vita 私の人生を
ti daro あなたに捧げる
Sembra un sogno ,rivederti,accarezzarti,
夢のように再会し愛撫し(あなたをじっと見つめ)
le tue mani, fra le mani stringere ancor.
あなたの手を,私の手の中にしっかりと握りしめる
Il mio mondo,tutto il mondo sei per me,
私の世界、世界の全てが私の為にある
a nessuno voglio bene come a te.
あなたのようには他の誰も愛さない
Ogni giorno, ogni istante,dolcemente ti diro
毎日、片時も忘れず、甘くあなたに囁くだろう
Come prima, 初めのように
piu di prima, 初めよりもっと
t'amero! あなたを愛するだろうと

当時はクリフリチャードの甘く優しい歌声が一番人気だった。

Googleグーグル

GOOGLE グーグルは言うまでもなく世界一の検索サイトである。
 検索サイト(調べたい事を探す場所)はいくつもあるがヒット率が最も高いのがグーグルであると言える。
 調べたい事が何であれ、グーグルに検索の為のキーワードをインプットすれば殆どの場合たちどころに答えが表示される。
 それもありとあらゆる専門分野に及ぶのであるから本当に恐れ入ってしまう。
 人の文章を勝手に引用などしようものならたちどころに御用である。
 教えて貰いたい事があればそれを文章のまま入力してみても良い。
 十中八九答えが返ってくる。
 先生代わりになるのである。
 これでは辞書や百科事典さえ要らない。
 最近では少し答えのレベルは低くなるものの携帯電話にもGOOGLEの検索が出来るものが現れた。
こうなってくればもう普通の試験勉強は意味をなさなくなる。
 覚える必要のあるモノはほとんど無いのだ。
 問題解決の方法に長けた智慧のある人間のみが必要とされる時代になってきた。
 単なるモノ知り、生き字引は無用の時代になった、と言う事だ。

自信の無い子供に

自信をつけてやるにはどうすればいいか?
 励ましてやれば少しは元気にはなるかも知れないが自信は決して身に付かない。
 やはり繰り返しさせてみて、簡単な事からさせてみて、アドバイスを与えながらさせてみて、一つ一つやり遂げさせてやる。そして更に難易度を上げていき一歩一歩実現させる事を通じて少しずつ自信をつけてやる。やれば出来ると言う信念の元に決して諦めさせない事が大切である。
 小さな自信の積み重ねはやがて誰にも負けない自信に変わっていく。そして大きな自信と信念に裏付けされた行動が出来るようになる。
 良い指導者に恵まれれば実力と自信を兼ね備えた人間がどんどん育つ。
逆に出來の悪い指導者にであったばかりに素質も台無しにされることも多い。

経験の重み

 何事にも経験が大切なのは誰もが認めるところだけれどもその事の別の意味での重要性について深く考えた事のある人はあまりいないようである。
 技術者というより技能者あるいは職人と呼ばれる専門家達は技術を身に付けるまでに何度も何度も訓練を受ける。
 初歩的な技術の習得の為にまず訓練と呼ばれる試行錯誤を繰り返す。初歩的な技術の習得が済むと次の段階でもまたより高度な技術の習得のために更に難しい訓練に取り組む。こうして次第次第に高度な技術を身に付け同時に自信も身に付いてくる。
 自信が身に付けばだんだん信念も持てるようになってくる。
 そして優れた技術が身に付き、正確な判断能力も備わって来て初めてひらめきの様なモノが生まれてくる。これが感性である。優れた感性というのは正確で優れた経験の積み重ねがあって初めて身に付く。
 素質や単なる偶然だけでは決して身に付くものではない事だけは確かである。
 
 

スピーチ

 先日親類の結婚式でスピーチをする羽目になってしまった。
 最初従兄弟から相談があるというので話を聞くと長男の嫁を貰いに鹿児島まで行くのでついて行って欲しいとの事であった。
 日頃から何かとお世話になっている手前まさか断るわけにはいかないのと、別段こちら側の事を相手方に紹介する役割ぐらい自分にも出来るだろうと思い簡単に引き受けてしまった。
 結局結納を持って行く事になり結納式に立ち会い、翌日はお嫁さんのご両親とも親しく過ごす時間を頂く事になってしまった。
 それから約半年、いよいよ結婚式の日取りも決まり式場の予約も全て完了して新郎新婦の紹介のスピーチをして欲しいと言われ事の次第上お断りできなくなってしまったのである。
 こうなったら大の苦手の人前でのスピーチをやるしかない、が、一体上がらずに無事務めを果たす事が出来るだろうか?中学時代に弁論大会で壇上に上がって初めて大観衆を見た途端頭の中が真っ白になり原稿棒読み同然の大失敗をやらかしてしまった記憶は完全にトラウマになっているのである。それでもやらねばならない。さあ、どうする。案ずるより産むが易しと言うではないか?失敗しないためには最悪頭の中が真っ白になっても何とか切り抜ける手だてさえ用意しておけばよいのだ、と考えたら幾分気が楽になった。それに空で話そうとせず原稿を丁寧に読むようなつもりで臨めば大丈夫だと考えて話しやすく聞き取りやすい原稿に仕上げる事にした。結婚式前日の夜、家内を前にして一度だけやってみて問題点が無いかチェックしたら随分気持ちが落ち着き自信の様なモノも湧いてきた。後は会場の様子が分かればもっと落ち着けるだろうと思い一足先に下見をしておいた。誰もいない宴会場と招待客でいっぱいになった会場ではまるっきり雰囲気が違うのだがスピーチ用の演壇の位置などを予め見ておいたお陰で上がらずに済んだ。

2007年8月28日火曜日

風の前奏曲

 タイの民族楽器ラナートの名奏者として知られたソーンを主人公にした映画の題名である。
 ラナートという楽器は友人と一緒にバンコクのホテルで見た民族舞踊のショウのBGMに使われていたような気がするが確かではない。
 映画を見て初めてその楽器の名前と形の詳細を知った。
 映画は演奏を禁じられても権力に抗っていく
ラナート奏者の生涯を描いたもので、映画の筋よりも中で使われている美しい画像と演奏が印象的な映画であった。
 いつかまた仏像を見に行くことがあれば実物の楽器も確かめてみたい気がする。
 
 



2007年8月20日月曜日

旬家

 有機栽培の野菜で作った加工食品・朝取り野菜を売り、隣接のレストランでは取れたての野菜で新鮮な料理が食べられる近くで今一番人気のあるお店である。
 NHKの番組で紹介された、料理研究家のニーナ・プランクnina planckさんが、ニューヨークで開いている「リアル・フード・マーケット」の日本版と言うところか、いつ通っても駐車場からは車が溢れんばかりの賑わいである。
 農家がその朝収穫したばかりの野菜を直接仕入運営している。
中国産の危険な輸入野菜を嫌って買い物に来るお客さんが多いのかも知れない。
 食品の安全性に対する考えも最近では随分厳しくなってきた。
 そこまで拘るのかと言いたくなるほど五月蠅い消費者がふえた。
 食品添加物を表示しないメーカーや製造年月日を誤魔化していたメーカーあるいは原材料を偽った詐欺まがいのメーカーが社会的に厳しい制裁を受けている。
 食品化学的に見て安全だと思われても決められた基準を少しでもはみ出した商品は排除される。
 命の根源に関わる食の問題だけに厳しくて当然だがもう少し分かり易い表示に統一すべきだと思う。


Organicとは

2007年8月14日火曜日

仕事

 一口に働くと言っても働く目的や結果報酬や苦労の度合い、達成度など色々である。すべて異なっている。
稼ぎのいい仕事、やりがいのある仕事、毎日のお決まり仕事、単に骨折り損のくたびれ儲け仕事、強制されてする苦痛を伴う仕事など 。
英語で言えば
 WORKは芸術作品や人生の全てを賭けた作品作りなどに対して使われるし
 LABORは骨折り仕事
 JOBは日常の細かい仕事
 TASKは与えられたノルマの仕事
 TOILは痛み苦痛を伴う仕事などなど仕事をするという意味を表現する言葉はいくつもある。
因みにBUSINESSは商売である。 
 

2007年8月13日月曜日

パールマン

 イザックパールマンのヴァイオリン演奏のアルバムを久し振りに聴いた。
映画のBGMのアルバムだが叙情的で繊細なメロディーが基調になっていてゆっくりくつろぎたい時に最適である。
 音楽好きの友人から頂いていたものだが5年近く経って初めて全部通して丁寧に聴いた。
 当時は何かと忙し過ぎてじっくり聴く事が出来なかったのである。
 もう一つ、 CDはお店のBGM用に季節の変化に合わせたものを不定期に時々購入するが、一度ざっと聞き流してBGMに相応しいものはお店用に回し、BGMとしてあまりにも静かすぎるものや逆に五月蠅すぎるものはBGMには流せないので普段聴く機会も少なくなる。
 そんな理由で最近はTRENDYな曲以外あまり購入しなくなった。  
 

2007年8月11日土曜日

「しようがない」と言う言葉

サッカー日本代表監督のインタビュー記事が文芸春秋8月号に出ていた。
 その中でオシム監督が嫌いな言葉として挙げていたのが「しようがない」と「切り換え、切り換え」だそうである。
 理由は「それで全部をごまかしてしまう、これは諦めるべきでない何かを諦めてしまう、非常に嫌な語感だと思っています。」と言う事。
 それともう一つのメンタリティとして「曖昧さ」を挙げている。
 「私は日本人に、あまり責任や原因を明確にしないまま次に進もうとする傾向があるように思います。」
 この記事を読んですぐに先だっての久間前防衛大臣の発言に思い至る人は多いと思う。
 真意が少しずれているかも知れないにしろ彼の発言はオシム監督の言うように大方の日本人の持つ傾向だという事である。
 この発言を本当に問題視出来る人達は原爆被爆者やその家族と関連を持つ人達だけではないだろうか?勿論、国務大臣としてしかも国防を担う省の大臣として軽々しくこんな発言をしていい筈はない。
 「もう済んだ事だから仕方ないな、気持ちを切り換えて新しい目標に向かって行こう」、と言う言外の意味を好意的に受け止めてくれる人達がいなかったのである。

2007年8月10日金曜日

英語耳

言うまでもなく英語の会話を聞き取る能力を持った耳の事である。
 しかし日本の英語教育ではこの事の重要性を認識した人が極めて少なく長い長い間おろそかにされてきたという事情がある。
 天下のNHKの英会話講座ですらその事に気づき実際の講座の内容に生かし始めたのがつい最近のことであることを持ってしても文部省の認識の低さが分かろうというものである。
 日本人にとって世界中で最も発音が聞き取りにくい言語は何か?
 実は英語である。
 逆にスペイン語やイタリア語は聞き取りで苦労する事はない。
 日本語の音にない中間母音は日本人の耳には最初の内ほとんど聞こえてこない。
 英国英語の比較的きちんとした発音記号に準じた発音でさえ聞き取りにくいのに、アメリカ英語のように巻き舌でしかも音飛びや音の繋がりが多い発音は文字面を見てようやく理解できる事が少なくない。
 しかし最近英会話のコースに限らずNHKの会話や語学講座の充実ぶりには目を見張る。
 実に効率よく上達できる方法に成長している。
 遅ればせながらの感は否めないが歓迎すべき事には違いない。
 外国語を学ぶ人間にとって最も喜ばしい事である。
 

品位

  日本人としての品位がだんだん無くなっている。

 立ち居振る舞いや敬語表現など日本独自の繊細な文化が失われつつあるのではないか?

 茶道や華道、書道、日本舞踊や詩吟、短歌や俳句、川柳や落語、歌舞伎や能・狂言など数え上げればまだまだ日本独自のものはたくさんある。相撲や合気道、居合いや空手のようなスポーツもある。
 共通しているのは全て精神修養が要求される事である。
 人間の心の品位・品格が養成されて初めて一つの到達点に至ると考えられるものばかりである。
 単に技術的に優れるだけでは評価されない。



 

労働力補完のための移民や出稼ぎの容認

を安易に唱える人達がいる。
 しかし過去安易に移民や出稼ぎを受け入れたりした国が今どのような困難に直面しているか?
 単なる人手不足を移民や出稼ぎで補おうとするのなら、その前に他民族の文化をどう受け入れるか、そしてそれが将来どのような結果をもたらす可能性があるか、充分検討しておく必要がある。
 必要が無くなったとき「はいご苦労様でしたお引き取り下さい」と言うわけにはいかないのである。
 皮膚の色、目の色、髪の毛の色、体格、宗教、習慣、考え方、価値観などなど異なるものだらけの海外の人達を受け入れる事はさほど簡単な事ではない。
 人種差別は悪いと言うが、実際には人種の坩堝と言われるアメリカこそ最もひどいという現実を知る人が果たしてどれ程いるだろうか?
 自由の国アメリカは実は・・・。という事が何処よりも多い国なのであるという認識を持つべきである。
 人間は子供を産みその子孫もまた生まれた国に定住していくものなのだから。

貴賤

 職業に貴賤無しと言われる。しかり。
 異なる職業に対して、尊い賤しいが決められるのは同じ社会のなかで必要とされる役割の違いの差別をしていることに他ならない。
 それぞれの仕事の必要性が分かれば貴賤の差別は排除されねばならない。
 そうでなければ社会が成りたたない。

 しかし品位の違いはある。
 上品下品を含めて品性というのはそれぞれの人格に備わっている。
 職業の違いは人間的な品位、品格の違いを生み出すのは事実である。
 品性は人格が作り出す。
 風格はその表相である。

朝青龍問題

これをどう考えるかは日本の大相撲文化をどう見ているかという事と同じである。
 モンゴル相撲と日本の国技としての大相撲は文化的裏付けがそもそも異なるのである。
 日本の大相撲の世界は古くからのしきたりや習わしが一つの格式として確立されている点で日本固有の文化である。
 以前横綱審議会の委員をされていた高橋義孝氏がもし今も存命ならば一刀両断横綱資格を剥奪する結論を出された事だろう。いやそもそも横綱としての風格や品格にかけるとして横綱への推挙を拒否された筈だと考える。
 日本相撲協会にとって強い横綱力士の誕生は待望久しい事であったかも知れないが、日本の相撲文化を全く理解していない力士を日本の文化的象徴である横綱にした事自体に根本的誤謬があったと言わざるを得ない。
 横綱の品格はとりもなおさず日本人の美意識の象徴だからである。
 横綱の一挙手一投足は日本人である我々の一挙手であり一投足ではないか。
 はっきり意識している人は少ないにせよ相撲ファンの日本人なら皆同じアイデンティティを持っている。
 白鳳が横綱に昇進した途端朝青龍に厳しく当たり始めたご都合主義の協会も笑えるが強ければどんな我が儘も黙認してきた情けない親方の存在が哀れである。
 

自民大敗

 ある程度の予想はしていたがここまで大負けする事を誰も予想も期待もしていなかったのではないだろうか?
 改革改革とお題目ばかりで実体は官僚の都合の良いように操られている自民党にさすがに国民の堪忍袋の緒が切れたと言える。
 本当は年金問題で露呈したお役所仕事に対する国民の不満や怒りが爆発した結果民主党が漁夫の利を得たに過ぎないと思うのだが取りあえずは民主にもう少し力を与えて国政を動かしたいと期待する国民が多かったという事だと思う。
 景気が悪いだけなら前回の選挙も不満を持っていた国民は多かった。
 しかし小泉人気に騙されて?実体を知らない国民は郵政民営化に期待した。
 そして期待は見事に裏切られた。
 
 中小企業や個人零細経営者のほとんど特に地方で生活している国民にとって景気の悪さの実感は
表現できないくらい悪い。この事を自民党議員達は知っているのだろうか?
 格差社会の実感は地方ほど強くなっている。
 ほんの一握りの勝ち組と残り大多数の敗者の構図は同じ轍を先行するアメリカの踏襲である。
 
  

茹だる暑さとは

こんな暑さを言うのだと改めて感じる程の猛暑である。
 夏風邪を引いてから何となく体調がすっきりしない日が続いていたのでこのところ自分の部屋に籠もって本ばかり読みあさっていた。
 そうすると余計に体が鈍ってしまって動き回る事がますます億劫になる。
 趣味の日曜大工の方も随分長らく手つかず状態になってしまった。
 
 最近は特にそうだが雑読にも(特に磨きがかかってきたというか)ありとあらゆる分野の本を手当たり次第に読んでいる。
 すると尚更関連の本も読みたくなって連鎖が止まらない。

 主に月刊雑誌や新聞、それにネット上に出ている書評を手がかりに内容をチェックする。
 時間も費用も体力も使わず自宅に居ながらにしてアマゾンネットで送料無料で購入できるのでついつい注文してしまう。
 便利すぎて本屋に出かける必要を全く感じないようになってしまった。
 アマゾンの宣伝をするわけではないが単なる通販サイトとしての機能を越えて双方向の情報交換がシステム化されていて快適な買い物ができる。
 リピーターへの還元システム、送料無料、関連書籍の提示、過去の購買履歴を基にしたお勧め書籍の紹介などは序の口である。
 ビジネスモデルとしてほかの業界にも参考になる。
 

2007年7月25日水曜日

鬱陶しい梅雨が明けたと思ったら

今度は焼け付くような日差しの強さが恨めしい。
なかなかこちらが望むようなお天気は望めそうにない。
鉢植えの木瓜が2つとも葉を真っ赤にして枯れ果てんばかりである。
大急ぎで日影に移動してやり、充分な水を与えてやる。
まだ大丈夫だと思うが外の気温は今日は32~33度はあるだろう。
 
 世の中は今参議院議員選挙の運動期間である。
 しかし何だかちっとも盛り上がらない。当たり前だと思う。
 年金問題などが社会に不安を与え、政府に対して疑心暗鬼になっている人も少なくない。
 それでもふがいない野党のお陰で自民党はしぶとく生き延びるのでは無いか?
 いつかの社会党政権が誕生したように野党連合がどれ程の票を獲得するのか?
 興味津々である。
 いずれにせよ大して代わり映えのしない結果を期待してもしょうがない。
 自民党の公務員改革に反発した官僚が自民党に不利な情報として、年金問題をリークした結果が今の年金問題だと言われている。
 自民党の改革勢力を信じるか、旧来の自民党政治の結果が今の日本だから政権交代すべきと開き直るか、果たして有権者はどちらを選択するのか?
 
 

2007年7月7日土曜日

「白は清潔」の逆発想・・・

黒いトイレットペーパー
黒い綿棒
黒いまな板
などなど
黒い衛生商品が登場しそれが大変な人気になっているらしい。

「黒が持つ汚れを目立たせる機能が認識され始めたと同時に、竹炭や黒酢が『黒=健康』というイメージを高めた」
と言う分析には成る程と思える。
しかし、そうは言うものの黒いトイレットペーパーをいざ自分が使う様をイメージしてもなかなかピンと来ない。
 やはり長い間に体に刷り込まれたものは容易には変えられそうにない。
 大多数の人がそれを流行だからと簡単に受け入れないのも大事な大事な事だと思うのである。

2007年6月27日水曜日

夏本番

梅雨の合間の太陽の光が目に眩しい。
 夏らしい熱光線に庭の草木も負けじと成長スピードが増したようである。
 うっかり水不足にならないようにしないとたちまち日に灼けて枯らしてしまいそうである。
 地植えのものはさほど水不足に陥る事は無いが鉢植えの方は鉢の温度も上昇するので蒸散する水分も多い。
 6月も残りあと4日で7月。 いよいよ本格的な夏到来である。

電子辞書

昨日待望の電子辞書が届いた。これまでの英英辞書付きのものも含めて6代目になる。
 フランス語中心の辞書だが後から他の国の辞書も追加登録できるのでヨーロッパ旅行など多言語に渡る会話が必要なときに重宝である。
  今回は追加辞書に「和伊・伊和中辞典」と「ひとり歩きのイタリア語自遊自在」それに「ひとり歩きの中国語自遊自在」を取りあえず選んだ。中国語は近いうち に上海にいく予定なので少しは耳を慣らしておこうと思う。本体メモリーにまだ余裕があるのであとでスペイン語とドイツ語も追加する予定である。足りなくなればメ モリーを追加すれば済むので10カ国語でも収まるので便利である。
 NHKの外国語会話の番組は殆どの国の言葉をある程度の期間は視聴した経験は あるのだけど英仏伊以外全く身に付いていない。しかしいざとなったら辞書や会話文例(しかも音声付きの)があれば心強いだろうと思う。 フランス語が基本 の辞書にしたのはフランス語の音声対応がなされているので練習するにもリエゾンや音抜けなどの発音がきちんと正確に確認できる点を重視したためだ。
 イタリア語の方が使う機会は圧倒的に多いのに基本辞書をフランス語の方にしたのはそんな理由からである。イタリア語の発音は基本母音がスペイン語と同様に日本語式発音でも充分である。
 だから辞書の音声対応までは必要ないと考えた次第である。韓国語は今毎月送られてくる「スピードラーニング」で聞き取り訓練をしている。なかなか時間が取れないので上達しないけれどもいつかはと思っている。

2007年6月24日日曜日

生活道路の通行止め

 勝手にメインの通りを真っ昼間から通行止めにして工事をされたりしてはたまったものではない。
 本来、道路の通行止めなどは所轄の警察署の許可も簡単には下りないはずなのだが、もう4年にもわたって町内の下水道工事を理由に断続的に行われている。
 20年以上も前の事だが街宣車を使って売り出しの宣伝放送を行うために道路使用許可申請書を出した事がある。 かなり厳格な審査があったような記憶があるが今はどうなっているのか?
 一度警察署に問い合わせてみようと思っているがなかなか時間がないのでそのままである。
 昼間の通行止めがその道路の利用者にとってどれ程の迷惑を被るか?
 私どものようにお客さんあっての商業者にとって生活道路が通行止めで通れない場合の不自由さと不利益は一般の人の比ではない。
 来店客の増減が売上額の増減にストレートに反映される販売業は通行止めで来店客が半減すれば売り上げも比例的に減少するのである。
 因みにこの通行止め一年目での売り上げ減少は4-5千万円に上り、今日まで通算すれば一億数千万円になり直接の見込み利益分の被害だけでも5千万円近くにはなる。
問題はこの影響が客離れとなって後々まで尾を引いていく事である。
 
 

2007年6月23日土曜日

ヴィジョン

 実現可能な夢の事をヴィジョンという。
 誰にでも夢はあると思うがそれが実現するためには可能性についてまず考える必要がある。
 その実現可能性を科学的に検討する方法の事をフィージビリティスタディという。
夢からヴィジョンそして具体的に実現可能な計画へと検討を進めていくのである。
 その過程で色々な問題点が分かってくる。
そしてそれらを解決するための方法を最近流行の言葉で言えばソリューションという。
 最近はコンピュータ技術を含めたITの進歩でソリューションも多様化している。
 いろいろ勉強すればするほど人より楽をして問題解決をする事が出来る。
 いつになっても勉強は必要なのだから楽しみながらやればよい。 
 良い人生を生きていく上でもアルゴリズムは必要である。

人間の卑しさ

 政治に関われば必然的に人間の卑しさに向かい合わねばならない。
政治はすべて利害が絡むからだ。
利害が絡むという事は欲と欲のぶつかり合いの現場に立ち会わねばならないという事を意味する。
 欲と欲のぶつかり合いというのは人間の卑しさと卑しさのぶつかり合いである。
どちらが上手にその卑しさをオブラートにくるみ、上品に隠蔽できるか。つまり、
 自分の内なる欲求を満たすために権謀術数を弄し相手をいかに論理的に屈服させる事が出来るか。
利害の政治的調整は最終的に権力のある者、言い換えれば周囲を従属させうる側に常により多くの利をもたらす。
そして権力のお陰で勝者の卑しさは上品に満たされ、敗者の卑しさは不満となって燻る。
敗者の不満が過度に燻れば革命や反抗など、今時ならテロ行動などの形で表出する。
古今の政治闘争は権力抗争の歴史であるが、それは権力のあるなしが富の獲得に密接に関わっているからである。
 卑しさというのは欲が表に出た状態を言う。
 少欲な人には卑しさは感じ取れない。

 般若心経には智慧(般若)を働かせて悟ろうではないか、あなたが不幸なのはつまらぬ欲(こだわり)のせいですよ、「欲を捨てよ」あるいは「少欲であれ」と説いている。

初体験

といっても処女や童貞を喪失する事ではない。
 生まれて初めての経験は全てそう呼ぶ。
 最近世の中の変化が激しくてついて行くのが大変だ。
 携帯電話や家電品など次から次と生み出される新製品。
 IT技術の進歩が生み出す各種のハイテク機器。
 政治的な力でいきなり方向転換された福祉などの社会制度。
 全て初体験のモノばかりである。
 ハイテク機器などの便利さを追求しようとすると限りない学習が必要である。
 田舎暮らしにはあまり必要性を感じないでも良かったものも都会並みになってきた。
 日本全国田舎の隅々まで全国チェーンの家電店、ホームセンター、CDレンタルショップやブックストアー、飲食チェーンなどなどを初め、大きなショッピングセンターも進出している。
 一昔前のアメリカよりも国土が狭い分多店舗展開のスピードも密度も凄まじい勢いである。
 久し振りの所にでかければ必ず何らかの初体験が出来るご時節である。

洞察力と感性

人が気付く遥か以前に物事の本質を見抜く能力の事を洞察力という。
何か変だあるいはおかしい、何かありそうだと気付く能力の事である。
 洞察力が発揮されるためにはいくつか条件がある。
 先入観を持たない事、対象となる物事に対する認識が正確である事、論理的な思考能力などである。
 繊細な気配りや注意深い観察力なども必要だ。総合すれば感性と言い換えられるかも知れない。

 実業の世界でも人より先に世の中の変化を読み取れる能力がものを言う。
 これからの社会がどういう方向に向かうのか、科学技術の進歩にも注目しておく必要がある。
 技術の進歩が社会の仕組みを大きく変えていく原動力になる事が多いからだ。
人より一足先に変化に気付き、新しい事業を立ち上げた事で先行利益を上げる例は数知れない。
 これも洞察力の賜といえる。
 
 政治的な駆け引きのうまい人間は人の心理をうまく読み取る能力に秀でている。
 政治家の能力は人の心を洞察できる能力である。
 

責任組織の内と外

 最近世間を賑わせている社会保険庁の問題。
公務員の仕事に対する意識の持ち方を象徴している事件である。
責任意識の欠如あるいは責任集団全体の無意識が招いた不祥事といえる。
特に誰かが悪いというわけではないと言う曖昧責任の仕組みと、
管理責任者を監督すべき省庁のTOPにいる政治家のあり方に問題がありそうである。
 とまれ子細がどんどん明らかにされるにつれ国民の不安と不満は益々募るばかりである。

良心と罪の意識

 良心というものと無縁の人がいる(らしい)。
どうも思考回路が普通の人とは違うらしい事に気付いたのはある事がきっかけだった。
 
 曰く言い難い人物。
 世間では世渡り上手だとか世話好きでお世話になったと言われいつもニコニコしている。
だから一見お人好しの世話好きにも見える。しかしこのお世話の申し出を丁重に断るとどうなるか。
 怒りだして敵意をむき出しにする。何故か。裏の計算が狂ったからである。
 どんな人間でも一見親切この上ない申し出に最初は感謝する。ところがどっこい必ず裏がある。
 狡猾な計算ずくの親切ごかしである事に気付かぬ人は多い。
あとでたんまりと付けを払わされる事になっていてもまだ気付いてない人さえいる。
 選挙の票集めが目的の場合などは直接金を出すわけではないので尚更だ。
日頃世話になっているからと投票を約束する。これは賄賂を貰って投票するのと何ら変わらない。
 政治の世界はそんなものだ、それが世間だと言ってしまえばそれまでであるが。
こういう形で結果的に人に気付かれずに公的利権を食い物にする議員などの政治家がなんと多い事か。
 政治家と言うより政治屋である。
 「人のお世話にならぬよう、ひとのお世話をするように、そして報いを求めぬよう。」
 後藤新平の言葉である。

2007年6月20日水曜日

このところ何かと忙しく

ブログに費やせる時間さえなかなか取れないでいる。
 Todo予定は山積しているがどれもこれもしようと思うと却って手に着かなかったりする。
 物置を増築したり、陳列テーブルを作成したり、庭木の手入れや挿し木をしたりと日常の雑事でも結構まとまった時間を要求する仕事ばかりである。通販サイト用の商品開発などの新しい仕事も増えた。
 本もあっという間に溜まって行く。
 新聞は毎日だし月刊雑誌や週間隔週刊の雑誌も少し油断するとたちまち山になる。
先日のように4日間も続けて留守にすると後で読むのに時間を取られるだけでなくすべての予定が後の方にずれ込む事になる。
 メールも毎日50通は下らないので4日もいないと200通を超えてしまう。返事を書く必要があると尚更である。
 仕事で出かける時はパソコンは極力持って行くようにしているが持って行っても出先でネット接続ができない場合もあるのでこういう状況はままある。
 体が3つか4つあればと思う。

2007年6月18日月曜日

カッパ橋界隈

2年ほど前に東京のカッパ橋界隈を訪れた事がある。
 親友がまだ東京に居を構えていた頃で誘って田原町まで。
 色々な道具屋が軒を連ねている様は以前はもっと賑わいと凄みがあっただろうなと思いながら歩いた。当日は平日だったせいもあり人通りもまばらだった。
 料理用の見た事もないような道具など昔の金物屋で扱っていた商品が軒並みにかかっている。
 全部を丁寧に見るのはとてもではないが不可能である。
 ほどほどにして切り上げる事にした。
 染色用のモリブデン鋼の大鍋を購入したかったのであるが、高価すぎて品定めが出来ずすごすごと退散したと言うべきであろうか。
 今日今手元にその時に購入をためらった大鍋がある。3年がかりで購入した事になる。
 鍋と言っても直径50センチ以上もあり、100リットル以上の容量の大鍋でアルカリの腐食に強いと言う。
 染料も化学染料には様々なタイプのモノがあるの通常の鍋では腐食してすぐに使い物にならなくなるだろう。
 草木染めなど自然の植物から取った染料ならまったく問題ないと思うが・・・・。

2007年6月4日月曜日

卯の花

 が満開である。
先日町に出かけたついでにホームセンターの植木売場で見かけて購入したものだ。
 最近季節の移ろいに会わせて咲く花々に興味を持って事ある毎に安い苗を購入して帰る。
春夏秋冬の季節の移ろいに会わせて咲き誇ってくれる花にはただただ感謝である。
 疲れた心身には極めて大きな癒しをもたらしてくれる。
 自分だけでなく周りの人達、皆にも幸せな気分になって貰える。

 いつか一年中花の咲かない時が全くないような庭を作りたいものである。
 

天皇制について

 天皇制についての議論は少々禁忌的な見方をする人が多い。
 しかし、その存在価値について本当に分かっている人がどれ程いるのか時々疑問に思う。
 ある時義理の叔父からその必要性について問われた事がある。
かなりのインテリジェンスの持ち主である叔父からの出し抜けの質問だったので真意を測りかねたが取りあえず、我も我もと言う小賢しい人間ばかりが多くて争いが絶えない状態にならないためにもそういう尊い存在が必要ではないのでしょうか、と答えた。
 権力の争いは人間の世界では無くなる事は無い。
だからこそ頂点に立とうとする欲求に諦めをつけさせる意味でも絶対的な権威が必要なのだという意味の事を言った記憶がある。
 共産主義の誤りは多くの社会学者の様々な指摘にも変わらず相変わらず幻想の信奉者が多い。
 彼らの大方はお人好しのアマちゃん達ではあるがこれは気付きの問題だからどうにもならない部分がある。
 共産主義体制下でも所詮権力のありかが変わるだけである、という事実。
人間性の本質についてもう少し深く掘り下げて考えれば気付くのではと思う。

市議会中継

をインターネットカメラでやってはどうだろうか。
 現在議会の開催中の質疑応答についてはケーブルテレビ中継録画で行われているが土木や建設などの各委員会の内容までは中継していないようである。
 今最も市民の監視が必要な委員会が建設や土木関連の委員会である。
 言うまでもなく工事の入札にまつわる談合などを含めて最も腐敗不正が起こりやすい所である。
 細かいチェックは第三者を含めてもう少し丁寧にやって行くべきである。
 市民オンブズマン組織を作ってやるのも良いし、ボランティアでやっても良い。
 人手の要らないインターネットカメラで委員会の質疑応答までつぶさに監視すれば腐敗が何処で起こりそうかも把握しやすい。
 インターネットカメラは最近ではタダ同然の費用で導入できる。
 回線は既に庁舎にあるLAN回線を使えば良い。
 見たい人はいつでもインターネット上で傍聴できる。
 委員会で審議される、より具体的な情報は直接市民生活に関わってくる事である。
 各種行事や工事日程などの情報ももっときめ細かく発表出来る。
 あるいは市民の意見を求める手段としても有用である。
 何しろ費用がかからない。極端な話、広報誌なども必要でなくなる。
 googleなどを使用すれば投書箱も広報もタダで設置できる。
 

通販サイトの未来

 今後インターネットでのショッピングは動画像を見てあたかも自分がお店で買い物をしているように出来るようになる時が来る。
 今でも動画像を音声付きで消費者に届ける事は可能である。
 自宅にいながらにして買い物が出来る条件を列挙してみる。
 商品を手に取ってみる事が出来るように鮮明な画像。
 カメラまたは画像を回転させて上下左右斜め上下から完璧に見せる。
 素材がアップで見える。
 つまり繊維の折り方や風合いまでアップにすれば分かる、などあげればきりがないが、
 要するに商品がそこになくともあたかも目の前にあるかのような演出が出来る事。
 手にとって触る代わりにコンピュータのマニピュレータ制御とレオロジーの技術で臭いや歯ごたえ歯触り、そして手に持ったときの感触などまでが分かるのも時間の問題である。

三ま世代

 マネー・ひ・なか
 この三つを持っている人達をこう呼ぶそうである。
 退職の時期を迎えた団塊の世代こそがサンマ世代の構成要素である。
 今後彼らの行動が世の中の変革していく事に異論がある人はいないだろう。
 これまであくせく働いてきた分をのびのびと自分自身の為に振り向ける事が出来れば結果的に充実した人生が送れるだろう。
 

正しい判断と賢い判断

正しい判断が世間的に賢い判断だとは限らない。
 言うまでもない事だが何か正しいと思って行動した結果、世間的に見れば正しくないつまり全く愚かな判断だったと言うような事はよくある。しかし愚かだったという判断基準はあくまでも世間的社会的な判断基準に照らしての事である。
 長い人生の中では正しいか間違っているか確信が持てないまま、正しいと思ってした判断が逆に誤りだったりする事も確かに時々はあると思う。真実は反対に世間の方が間違っているにもかかわらず。
 けれどもここで正しい判断が出来なかった自分自身を責めてみてもどうなるものでもない。
 大切なのは自分自身の思考過程がそういう判断を下した事をじっくりと検証する事。
 世間が間違っている場合だってあるのだと思って検証してみる。
すると全く反対に世間が間違っていたなどという事もままあるのである。
 ドストエフスキーの”白痴”という小説をご存じだろうか。
 世間では白痴扱いされている子が実は普通の人に見えない本質をあるいは真実を全く透明な眼力で見抜いていたと言う事実。
 世間なんてこんなものであると思う事も大切である。

2007年5月19日土曜日

市長と県議が親子

これは大変な事である。良い悪いと言う事を言っている訳ではない。
親子二人で同時に同じ行政区域を引き受ける事になったというのはむろん担ぎ出した支持者達の責任でもある。果たしてそれだけの力量があるかどうかこれからの4年間で問われる訳だが問題はそこにあるわけではない。権力の集中が問題なのである。諸般の事情から他にしかるべき候補者が出なかったと言うのも別の意味で問題だが、それにしても出る方も出る方ではないだろうか?私は素朴に彼ら親子の良識に疑問を持つ。
 彼らの力量が有ればあるほど周囲がどう思おうが結果的に行政の私物化は避けられないだろう。親子はあくまでも親子である。親子共々聖人君子であれば少しは救われるだろうがまずはあり得ない。政治家というのはあくまでも利権に関わる職業だからである。利権に関わる人間が聖人君子であり得る事は現在の選挙の仕組みから見て不可能である。人となりや人物のことではない。
 行政の長がどれほどの権力を与えられているか殆どの有権者は知らない。
 市長も県議も地方自治における強大な権力の保持者という点では殆ど同レベルなのである。 
 親子二人での陰湿な暗黒の恐怖政治が行われないという保証は何もないのである。
 良識というのはこういうときに問われるのではないか?
 バランス感覚とでも言うべきかも知れないが、判断を下した有権者の決断はOKだった訳だから選んだ有権者の責任すなわち今後の政治上の結果は自分たちで全て引き受けなければならないだけである。
 問題点が明らかになるとすればそれは任期も終わり全てに不満が露呈するようになったあげくでしかないだろう。 つまり選んだ有権者は何年も経ってから後悔しても始まらない選択をしてしまった事に気付くしかない。
 これが民主主義の別の危険な側面である。
 願わくばお二人が一部の支援者のしがらみに振り回される事無く地域住民の為に真の聖人君子的行政を行われん事を。
 付け加えておくが私は彼ら親子の事は何一つ知らない。人間性も知性も理性も感性もそして氏素性も。

2007年5月13日日曜日

政治責任と社会的責任

 世の中には仕事の責任の取り方が曖昧で結果責任をあまり追及されない人達が存在する。
 公務員である。公共のサーバー(奉仕者)としての仕事で誤りや失敗があってもその責任を問われるという事はほとんど無い(ようである)。仕事柄公共の為の仕事だから何をしても許されるという勘違い。
 責任を追及されても前任者がやった事なのでと言う言い訳だけで済まそうとする。
 最終的には個人的な責任がある筈なのに集団全員無責任が当たり前とされてしまう。
 いま国会で侃々諤々の議論がされている社会保険庁の年金問題はその最たるものである。
 すべての公務員が悪いわけではない筈なのになぜこんなにまでおかしい国になってしまったのだろうか?
 政治が悪いからである。教育が悪いからである。詰まるところ選挙民である国民が悪いからである。
  その地域の代表である議員の力量はそれを選出した選挙民のレベルだと言われる。
 知識レベル、文化レベルいずれもその選挙民の平均値以上の代表とはなり得ないからである。
 だから政治が悪いのは選挙民が悪いせいである。
 政治の仕組みを作るのも運営するのも選挙民である自分たちが選んだ政治家である。
 つまり政治の仕組みが悪い原因も責任も選挙民にあるのは当然である。
 政治が悪い原因は誰でもない、自分たちなのだという認識を持たなければ政治は永久に変わらない。
 
 戦後の中途半端な民主政治の仕組みはアメリカの押しつけで始まったものではある。
   (しかしこれはその後の政治家の責任と同じくその選挙民にも責任がある。) 
 日本に本当の意味での民主主義が生まれないのは”まあまあなあなあ”のなれ合い政治が変わらないからである。
 地域を代表する候補者には政党の枠に関わりなく地縁血縁などのコネが全てという日本の社会構造が味方する。本来政党や主義主張の類が意味を持たない。
 自民党政治が存続できたのもじつはこのお陰である。
 これは日本という閉鎖型の、和を尊ぶ国民性によるものなのだから”欧米型の民主主義”でない日本独自の政治システムをそろそろ検討しても良い時期にきているのでは無いか?
 そもそもアメリカでは大統領の選び方からして日本の首相の選ばれ方と大きく異なる。
 
 政治家とは政治のプロであるがのらりくらり責任逃ればかりが得意で肝心の政治家としての役割を本当に果たしている人がどれほどいるだろうか?
 同じ事は公務員の集団的責任逃れにも言える。
 政治の役割の本質は利害調整であり、国が何とかまとまり繁栄しているのだから概ねうまくいっていると主張する政治家もいるかも知れないが・・・。
 公務員の増減も任免権もすべて政治家に委ねられているのである。

2007年5月11日金曜日

プロフェッショナル・職人

 プロフェッショナル(プロ)という言葉は普通プロ野球やプロゴルファーなどの言葉でなじみの深い言葉であるが本当にその意味合いが理解できているだろうか?
 プロは職業という意味であるが、単にアマチュアとの区分を目的にした言葉では無い。
プロになるとアマチュアとは異なり責任の重さが格段に異なってくる。
責任というのは専門家としての職業生命をかけるという事である。
プロとして行った事に対して何か問題が生じた場合、その責任の取り方はプロとしてその職業生命をかけられるかどうかと言う事になる。
 今後の生活基盤を失うほどの責任の取り方に覚悟を持っているかどうかと言う事になる。
すべて職人はプロとしてその技量を評価される。職人としての優れた技量を評価される反面、拙劣な場合の評価も厳しい裁定になる。物販業にしろサービス業にしろその提供する品質レベルが低いならば売り上げ実績がたちまち減少して商売が成り立たなくなる。
 プロ野球やゴルフのように一般の人達にその優れた技量をお披露目する仕事はエンタテインメントの仕事だが観客が期待する実績を達成出来なければたちまち人気が落ちお払い箱になる。
 普通、職人が受けた仕事は相手の要求に満足に答えられなければその責任を全うした事にはならない。
 各種の専門家つまり職人である税理士、弁護士、医師、庭師、左官、大工、理美容師などすべてがそうである。
 

2007年5月10日木曜日

ホンダ創業者本田宗一郎のことば

「いいかみんな、消費者というものは「ニーズ」なんてものは無いんだよ。
消費者というのは欲求は持っているんだけど曖昧模糊としてるんだよ。
「こういう二輪車に乗りたい」とかそういう具体的なニーズというのはほとんど持っていないんだよ、
俺たちがそれを形にしてやらないとな!!」
  ある日の社内訓話より

「消費者に不満はないんだよ。
もっともっと便利で気持ちの良いものを作って提案してやる事が大事なんだよ。」
 toto東洋陶器 木瀬社長

「我々が消費者に具体的な欲求を作り出してやる事こそビジネスである」
という認識こそサービス業、製造業を問わず最も重要だと思う。

2007年5月7日月曜日

ブランドの必要条件

商品価値について述べる言葉
●商品特性の面から見れば
ユニーク。オンリーワン。奇抜さ。突出度。アピール性。目立ち度。主張性。先進性。着眼点。希少価値。ストーリー性。トレンド性。ファッション性。注目度。
スマートさ。優しさ。熱情。熱さ。切れ味。早さ。説得力。品位。
おしゃれ度。調和性。バランス。明確さ。可愛さ。美しさ。デザイン。色合い。鮮やかさ。ゴージャス。華やかさ。華。ふわふわ感。浮わつき感。
機能性。動きやすさ。軽さ。強さ。保湿保温性。伸縮性。暖かさ。通気性。肌触り。着心地。風合い。手触りのなめらかさ。しなやかさ。優良品質。堅牢性。耐久性。修理復旧性。再生性。環境性。
●魅力度合いの面から見れば
 優しさ。和み。和やかさ。ストレス緩和。気持ちよさ。適度の緊張感。くつろぎ。落ち着き。休息。
安らかさ。幸福感。飽満性。充実感。満足感。うれしさ。楽しさ。喜び。朗らかさ。屈託なさ。明るさ。
論理性。集中性。熱中度。魔力。魅力。不思議さ。ひらめき。きららかさ。旬度。
立地性。便利さ。時間。空間。わざわざ。遠近。歴史性。因縁。
 晴れやかさ。快活さ。快さ。機転。潤い。控えめ性。好感度。贅沢。奢侈。
永遠性。かわらなさ。伝統。貴族性。上品さ。エレガントさ。気品。高貴さ。香り高さ。高級感。
大衆性。世俗。情熱。執着。欲求。嗜好。好き嫌い。色気。知名度。愛着性。イメージ力。
豊かさ。豊饒さ。富。誠実性。聖性。天性。オーラ。
などなど
商品価値について表現する言葉は様々。
だがこれだけ全ての要素を持つ商品は稀であるかもしくはないはず


ブランド永遠性(変わらない事)とモード現在性、トレンド性(変わる事)は本来両立せず
変わらないでいるためには常に新しさが必要という逆説的事実。
永遠の輝きと今という流行のときめき憧れと近づきがたさ
ヴィトンは壊れない永遠性と言う商品価値と近付きがたい高価格そしてファッション性を調和させた。

品質レベル、感性レベルの象徴としてのヴィトンというブランド名。
ブランドの起源はいつも必ず特権階級の為の贅沢品だったと言う事実。ところがそれが庶民にも近づきやすくなった。

すべてのブランドは伝統という永遠性とファッションというつかの間の輝きという相反するロジックの間をうまくくぐり抜ける綱渡りをしている。ヴィトンは世界一その綱渡りが上手だというわけであろう。

消費者は高価格品でもその価格に見合う商品価値があれば購入する。
安ければ良いというものでもない。誰もが買える商品はそれだけで価値が低下する。
誰もが買える訳ではない商品こそ希少価値の点で差別化できる。
キーワードは差別化であり希少価値である。
だれにでも売らない事を売りものにする

2007年5月4日金曜日

言葉の壁その2

 冗長性と論理性について
ある時学者(国立大学の教授)と実業家(県会議員・兼公的団体の会長)の話を同時に聞く機会があった。
 その講演が終わった後である人が講演を聴いた人達にその講演がどうだったかを尋ねた。
答えは殆どの人が実業家の話が良かったと答えた。
 内容について言えば実業家の方は殆ど中身のない話で政治家に特有の繰り返しのフレーズの多い内容だった。最初の大学教授の話が簡潔かつ論理的で殆ど無駄な言葉を繰り返さないそして内容的にも極めて充実したものだったのにも関わらずである。
 このとき感じたのが、人の話を聞くのにしても受け止める(聞く)側の知識データベースの違いや聞き取り能力、理解能力の違いで伝わり方にこれほどの格差が付くものなのだということであった。
 より印象に残ったのは実業家の話の方だったわけである。
 
 「よく見せて言って聞かせてさせてみて褒めてやらねば人は・・・・。」という言葉を思い出した。

言葉の壁

 母国語と異なる言語で意思の疎通を図ろうとする時、最も困るのは該当する言葉がそもそも存在しない時である。相手の文化にない母国語の言葉の意味を気候風土や生活習慣に始まり色々と回りくどく説明するのは最も骨の折れる仕事になる。
 日本文学のわび、さびの世界、歌舞伎、能、狂言などの日本の伝統芸能特有の言葉、あるいはわさびの辛さ、梅干しのしょっぱさなど日本食だと普通の食べ物の味を表現する言葉などに対応する言葉が外国語に無い場合がそうである。
 それぞれの民族の生活の多様性から生まれるデリケートな表現が固有のそして特有な言葉になる。
 生活や文化のコミュニケーション課程でその環境風土に特有の事物を表現する言葉や概念が生まれる。 
 少し異なるかも知れないが同じ国民同士でもボキャブラリーの格差から意思の伝達不足が生じるのであるから、異なる言語で教養あるいは知的レベルが違いすぎるともうお手上げになるように思う。
 実際そういう経験をした覚えがある人は結構多いのでは無かろうかと思う。

 日本人が江戸時代まで使っていた男女関係の惚れる恋する愛しいと言うような言葉の概念に対して西洋文学翻訳の際に恋愛という言葉が当てられたそうである。これも仕方なく当てはめた言葉であろう事は外国映画の恋愛ものを見れば推察できる。愛という概念は西洋文化特にキリスト教文化圏ではエロスとアガペーの二つに分類されている。一方仏教圏では五つの分類がある。

2007年5月3日木曜日

薔薇の季節

 花はどんな花でも美しいが薔薇はやはり格別だと思う。
 五月は薔薇の季節である。
 クラシックローズ(イングリッシュローズ、オールドローズ)、モダンローズ、クライミングローズ、ランブラーローズ、ミニチュアローズ、、フロリパンダ、ハイブリッドティーほか分類の方法に関わらず種類も豊富。
 香りの良さと見た目の美しさの両方を兼ね備えている点も魅力。
 いっぺん根付くとあまり手間もかからないので(かけた方が良いがかけなくとも育つので)ついほったらかしにしがちだが地植の方が手間がかからず管理が楽である。
 定期的な剪定作業をきちんとやって施肥を忘れなければ良い花を咲かせる事が出来る。
 手間をかければかけるほどそれに見合う形で答えてくれるのも薔薇の魅力である。

庭いじり

今日は五月晴れのいい天気になり、朝から庭先に出て開花前に親類から頂いた君子ランの株分けをしたりシンビジウムの鉢の移し換えをした。
 ホームセンターにラン用の土を買いに出かけたついでに野菜の苗や野菜用の深鉢それと培養土を購入し植えつけた。
 昨年はお店の改装工事で野菜作りどころではなかったので今年は家で消費する分の何割かを自前で収穫したいと考えている。
  ナスやきゅうりなど一昨年は半分位の自給率になった。買うにしてもそれほど高いものではないがやはり新鮮さが全然違う。きゅうりにしろトマトにしろ瑞々し くぱちぱちしているし、農薬などの心配もゼロ。かぼちゃなどは2本の苗でひと夏分が充分にまかなえる。トマトやバジルは取れたてをスパゲッティに使うと皆 が驚嘆する。パプリカも果肉が果物並み。きゅうりは2本の苗から毎日使う分量が賄える。植えつけてから早いうちにつっかい棒を当ててやったり少し基本的な 手間を惜しまなければすばらしい収穫にありつける。 基本的には花つくりと野菜作りはさほど違わないが野菜の施肥は花よりも充分にしなければならないよう だ。花は開花後のお礼肥えを充分にしないと次のシーズンによい花をたくさん咲かせてくれない。

2007年4月24日火曜日

コスモポリタン

 世界を股にかけると言う表現がある。
コスモポリタンという言葉の意味は、世界的な視野で、国際的な、と言うような所であろうが、お人好し日本人の場合偏狭でない国際人はなかなか育てにくいのではないかとこの頃思う。
 日本の常識は世界の非常識という言葉もあるように、自分たちの考え方が正しいと思っていても世界的な視野で検討すると間違っていたり、見当違いだったりと言う事が多々ある。
 利害関係の異なる人間同士や国同士が同じアイデンティティを見いだすのはなかなか困難なものらしい。
 諍いやすれ違いの元は全てこの一方的な勘違いから起きるように思う。

 

人間のキャパシティ

 機械や道具の処理能力の大きさの事をキャパシティという。
容量というのが原義だが広い意味でその使える能力の大きさを表現するのに使われる。
 同じような意味合いで人間の記憶容量や処理能力の表現にも使う。
 人間もキャパシティオーバーになるとパニックになる。
 処理能力を超えた仕事は手に負えない。年を取ると記憶容量というキャパシティが確実に減少する。

 今はIT(インフォメーションテクノロジー)の発達で随分効率的な仕事が出来るようになった。
インターネットが使える環境にいさえすればほぼ困る事がない。知識はパソコンの向こう側にいつでも用意されておりいついかなる時でもキーボードをちょっと叩けば画面に回答が映し出される。

あるいはNC工作機械やマシニングセンターのインテリジェント化の進歩で自動生産の効率化が進んだ。
ロボットでできる事はロボットにさせる分、人間のキャパシティも頭脳的な面の意味合いが大きくなってきた。ここでも知恵がものを言う。経験を知恵に結晶化する努力こそが重要である。経験を生かした処理プログラムを書ければ仕事は幾らでも効率化できる。

感性について

知性・理性・感性という時、知性や理性のことは理解できるが感性ってなあにという人が結構いる。
感性のことを感覚と勘違いしている人もいる。
では一言で感性とはという問いに答えるとするとどういう答えが最適だろうか?
 漠然とした感じで感性というものを理解しているつもりでいる人。 なんとなく分かるあるいは分かったつもりでいる人。 全く分からないという人。芸術的な意味合いで理解している人。などなど、その感性度合いはさまざまである。
 感性ほど人によって理解度が異なり、身に付き具合(度合い)の違うものも無いと思う。
 理詰めの話なら任せておけという人でも、感性レベルの差がものを言う話になると全くお手上げという人も少なくない。広い意味での感受性を包含する言葉として使う場合これほど便利な言葉もないかも知れない。 人にうまく伝えにくい要素を含んでいる場合に特に便利な言葉である。しかし感性の話だからと言って論理的な説明が出来なくても良いわけはない。芸術作品の評価をするときには勿論感性抜きでは語れない。しかしその場合の感性が専門家だけの範疇のものだという見方も間違いである。
敢えて一言で言うとそれは知識や経験の集積から生み出される第六感の事である。知恵のようなものである。だから感性を磨き上げるには経験を積む必要があると思う。

速読・多読

速読の必要性は皆感じているはずである。
これだけ早いスピードで世の中が変化すれば情報量も半端ではない。
出版される本の量も凄まじい。
読まなければ取り残されそうな気になる本も毎日雑誌や新聞の書籍の紹介欄で次から次に出て来るので大変である。
只単に早く読めれば良いわけではない
中身が大切である。
今の自分に本当に必要な物を素早く見分け熟読すべきは精読し、さっと読み飛ばしても良い本はざっと目を通して要点だけを頭にインプットしておけばいい。
要は何をどのような目的で読むか?きちんとしたスタンスで取り組む必要があると言う事である。

経営は生きる上での決断の積み重ねと同じ

生きていくためには生活の糧を稼ぐために仕事をしなければならない。
仕事の種類が何であれそれは恒に判断を求められ続ける経営である。
 一人であれ集団であれ一定の成果を求めて人は仕事をこなす。
分岐点に出会うたびにどちらに向かうべきか決断を求められる。
どちらに行く方が実りが多いのか決断しなければならない。
場合によっては取り消しのつかないあるいは引き返せない判断を下してしまう可能性もあるのが現実である。
 結果的に良かったと言える決断の事を成功と言い、悪い結果に結びついた判断を失敗だったというだけだ。

 
 

組織は常に肥大化しようとする

 どんな組織であれ組織というものは常に拡大しようとする。
最初は小さな小さな集まりでも時間の経過に比例するように肥大化していく。
その原因あるいは原動力はその組織を構成している個々人の内面にある欲求である。
 人が常に権力を拡大させて行こうとする欲求を持つようにその構成体の組織も拡大欲求を持つようになる。今日よりも明日、明日よりも明後日という風に常に組織を肥大化しようとする欲求に従って動くようになる。 最初は一人か二人の組織がいつの間にか数人そして数十人の組織に成長してしまうのはその為である。その成長課程は必ず人手が足りないので人数を増やして欲しいと言う形で要求された人員増員が基本である。じぶんの所属する構成部門の権力増大欲求である。
 最初一人か二人の構成員で済んだはずの部署がいつの間にか数十人もの人数を要求する部署になってしまうのである。人はそのような状況の事を成長あるいは発展と呼ぶ。
 実体はどうか?と言うと何の事は無い。仕事としてはあまり必要でない事を無理矢理その部署に必要な仕事と位置づけて作り出したものでなんの為にそんな仕事をしているのか分からない事さえままある有様になる。何故か?それは味方あるいは仲間が多ければ多いほど自分たちの権力が増すからである。
そのあげく無駄な人材が無駄な予算を食い潰す。公的機関の場合は税金の無駄遣いである。これは今の公務員の有様を見ればよく分かる。組織を管理する人間が本質に気付いて歯止めをかけなければ組織は拡大を続け挙げ句の果てに破綻する。夕張が良い例である。人手や予算を増やす前にどうすれば生産効率を上げる事が出来るかに知恵を絞るべきである。

人格・家の格式・国家の品格

 一人一人に人格があるように家にも家格・格式がある。
言うまでもないが家・格格式はその家庭に代々受け継がれてきているもので一つの流儀というかスタイルのようなものである。
 結婚をするとお互いの家の流儀の違いに戸惑う事が全くない人はまずいないだろう。
 嫁として嫁いだ先の格式になじめず苦しんだ古い時代の話は今ではあまり耳にしないがやはり伝統や格式を重んじる家庭ではその家に入った以上は適応を迫られるだろう。
 格式というものが単なる形式であればさほど気にしなくて良いかも知れないが代々の智恵の集積されたものがその家の格式なのだから大切に継承していく価値があるはずである。
 格式や伝統を重んじる生活の中には風格が感じられる。
人間として生きていく上で大切にすべき物事が自然体で身に付いていく。
賢い先祖がいるからこそ生まれた知恵は今を生きる子孫の力になるはずである。
そういう意味でももっともっと伝統や格式に目を向けていくべきである。
国家の品格で藤原正彦氏が述べている事も同じ事だと思う。

2007年4月22日日曜日

銃社会アメリカ

15年以上前に子供2人を連れてアメリカ西海岸の旅行をした。
その時のオプショナルツアーで銃の射撃の経験が出来るツアーに参加した。
指導者は射撃練習場の専属でオリンピックの代表選手の経験があるという鹿児島出身の日本人だった。
一通り拳銃の簡単な仕組みの説明と取扱方法の注意があった。
その後射撃場で防音用の耳当てを装着した後実弾を込めて射撃となる。
 38口径のものも含めて3種類を試させて貰った。最初の1発目はさすがに不安があったが2発目からは落ち着いて出来た。的を射るのはコツをマスターすればさほど難しいものではないような気がした。
比較的近い距離でと言う条件があればの事であるが。銃の取扱は一度経験したものにとってはさほど怖くなくなるような気がした。これは結果的にやはり怖い事である。いざとなったとき銃に手が向く事になるかも知れない心理を養うに充分な経験である。
 つまり何の為の練習場かというと一歩間違えば人殺しの練習になると言う事である。
 アメリカという国で銃の規制がなかなか進まない原因はこういう施設の存在にもあるだろう。
全米ライフル協会は積極的自衛のために銃の規制に反対している。
拳銃やライフルが手軽に売られており手に入る社会だから自分に向かって銃口を向ける相手は自分で始末せざるを得ないという考えになるのも無理からぬ事かも知れない。アメリカはやはり野蛮な国である。

パスツールコルベン

パスツール研究所はパリを中心に世界中に施設があり、ボルドーにも研究所がある。
ボルドーは言うまでもなくフランスの有名なワインの生産地である。
パスツールはフランスのボルドーと縁がある。
彼は発酵の研究からモノが腐るのは空中の有害菌がモノに付着し増殖して起きる事を発見した人である。
パスツールコルベンとはその原理を証明するために考案されたフラスコで口が毛細管状に細く細くなっており一端煮沸した後にそのフラスコの中に雑菌が入り込まないように工夫されたものである。
この証明から発酵学は飛躍的に進歩した。
なぜこんな事を書いているかというと、我が家の一員が鍋などに入った食べ物をしょっちゅうネマ(腐敗)らせてしまうのである。幾ら説明しても理解できないのかお玉を半開きの鍋ぶたに挟ませたままで放置する。結果として空中の雑菌の繁殖で料理がすぐに腐敗して駄目になってしまう。この繰り返しである。鍋の中に残りがある内には必ずお玉は外に取り出し、ふたは密閉状態を保つようにきちんと閉めるようにしなければならない。一晩置くときなどはお玉は洗って置く。ふたを密閉する前に一度煮沸するくらいの熱をかけておく方が日持ちが良くなるのは言うまでもない。

機転

医者として付属病院で後輩インターンに手術の指導をした時の経験を弟が話していた。
厳しい受験競争を勝ち抜き一流大学の医学部を出たインターン程いざと言うとき機転が利かないという。
手術などの際、予期しない状況に見舞われた時に臨機応変の処置がなかなかできない人が多いとの事。
 決められた手順通りに正確に早く仕事を処理する能力には秀でているのだが、応用力というか機転を利かす事は不得手なのだそうである。
 論理的な思考能力には優れているのに、総合的な状況判断に必要とされる感性が欠如しているのかも知れない。 広い意味でのしたたかさあるいは落ち着きや情緒と言っても良いものかも知れない。

 数学者である藤原正彦氏が言っていたが感性が豊かでないとあるいは美的情緒がないと数学的な発見は出来ないそうである。

子供の怖さ

 子供の好奇心や無頓着には時々辟易する事もある。
 しつこく質問されて閉口した経験のある人も多いだろう。あるいは気配りの無さにどぎまぎということもある。
しかしこのような好奇心がきちんと満たされて育てられた子供は優しく豊かに育つ。
無頓着をたしなめる大人が周囲にいればそれだけ世の中に気配りができる人間に成長できるだろう。
 
反面、心も知性も情緒も満足に成長する機会がない子供の場合はどうだろうか?
 子供の怖さは純真無垢なようでその実は悪魔的な悪を行使する場合がある事では無いだろうか?
大人の理性も知性も判断能力も持ち合わせていない子供はいったん走り出すと歯止めがきかないのも怖い。
 中学生や高校生など子供が引き起こす犯罪には、思慮の浅さから来る実に怖い犯罪がある。
ホームレス狩りやテレクラを利用した恐喝殺人事件など枚挙に暇がない。
 知性も感性も情緒もそして心も豊かに育てるにはまず今の親たちの教育に対する認識から見直さねばならない気がする。

愛するなという釈迦の教え

愛は執着だから愛してはいけないと釈迦はいっている
仏の教えは何ものにも執着するなと言う教えである。
仏陀の言う愛は5つ。ピヤ(情愛)・ペーマ(友愛)・ラティ(恋愛)・カーマ(性愛)・タンハー(渇愛)
自己のために人を愛するのは渇愛である。
のどの渇きを癒すために水を飲むとますます水がほしくなるような渇きがその本質だから更に切なくなるのは当然である。

西洋社会でいう愛にはアガペーとエロスの2つがあると高校の倫理社会科の授業で習った。
アガペーは神への愛、エロスは人への愛。

読書の効用

本を読む事は先人の歩いた道を追体験する事に他ならない。
自分では一生かかっても経験できないような事を本を読めば疑似体験できる。
そしてその疑似体験の中から経験知を得る事が出来る。
時間的にも空間的にも不可能な体験が可能になるのが読書である。
しかも本はそして活字は極めて安い費用で手に入れる事が出来る。
大学時代に一年ほど居候した叔母の家で当時中学生の従兄弟に対して本の持つ価値について話した事があった(らしい)。”活字は安い”という表現で。
最近久しぶりに会った従兄弟からその事を言われてすっかり忘れていた自分が少しばかり歯がゆい思いをした。
 当時福田恒存の評論集にのめり込み、それまでの考え方が根本から変革された時期だった。
僅かに本の代金のみで先人の貴重な体験を自ら経験する事が出来るのである。
整理された分かり易いエッセンスとして提供された経験知は極めてローコストの教育実習と思えば安いモノである。偉大な思想家の思考課程とその成果としての思想さえも簡単に手に入る。

遊びと無駄と

無駄な事ばかりしていてもある時その無駄が突然有用な経験に変化する事がよくある。
興味の赴くままにいろいろな体験(読書もその一つ)をしておくと後々それが役に立つ。
すぐには役に立たないようなその時には全く無駄な事でも将来急に役に立つ場合もある。

急いでいるときほど近道をしたくなる。
しかしきちんとした道筋に従ってゆっくりと行動しておいた方が、一見遠回りでも結果的に良かったと言う事がままある。
急がば回れ 、せいては事をし損じる。
というのはこのような事を言うのだろうと思う。

近道寄り道回り道たまには無駄をのんびりと。

智恵と智慧と経験知

経験的に身に付けた能力を智恵、宗教的哲学的な叡智を智慧という。
悟りを開くための智慧、道理を悟る才知の事を智慧という。般若心経の般若。
智慧を持って悟りの世界に到達する。
はっと気付いて道理に目覚め、悟りが開けるような場合の気付き。

PARIS・・・サンチエ地区

サンドニ門からルーブルの方向に大通りと平行して狭い通りが続いている。
その両側には卸問屋が軒を連ねていて路地や建物の中庭の奥にはいわゆるマンションメーカーのような小さなファッションオフィスがいくつも存在する。
 猥雑な感じがするのは昼間から客目当ての娼婦が胸の大きく開いた服を着て咥えタバコで路地の壁に寄り掛かっていたりするせいであろうか。
 サンチエという名前だけは聞いたことがある人も多いかもしれない。
 問屋街なので現物が出回る時期は日本よりもひと月以上遅れているような気がする。
 普通日本では遅くとも1月末から春物の展開が始まるがパリの問屋街では3月に入ってからである。
一度2月の終わりに行ったときに買う商品がなくて仕方なしにルーブルやオルセーの界隈で時間をつぶす羽目になった事がある。
 
 

2007年4月21日土曜日

スイスの豊かさ

はどこから生まれるのか?
 ヨーロッパの中心部にあって山地と湖しかない国なのにどうしてスイスが豊かなのか?
 前から疑問に思っていた。
 師弟教育のやり方に他国に抜きんでたものがある事がその理由ではないか?
 公用語が独仏伊3カ国語とトリリンガルは普通。
 言語的にも周辺各国との交流に必要な言葉の壁を克服している事。
 知的な生産に最適な環境。
 地理的にもヨーロッパの中心にある。
 人種が入り乱れていても永世中立国としての立場を最大限に生かしている。
 

ミラノのスカラ座にオペラを

見に行くと言う二人連れのご婦人とチューリッヒからミラノまでの列車で一緒になった。
その内の一人は日本のカネボウで雑誌の編集をした事もあるという。
香港からのキャセイ便で朝早くチューリッヒに着いてミラノに向かう列車に乗り込むとまもなくその二人が同じコンパートメントに乗り込んできた。
 最初二人はドイツ語で話していてさっぱり会話に入り込む余地無しだったのだが、途中から英語で話し始めたので割り込んだ。
 今からミラノに行ってオペラを鑑賞した後でショッピングを楽しむつもりだと言う。
 エレガントなカジュアルドレスに大きな黒いナイロンバッグを持っていて帰りはこれいっぱいに服を買って帰るのと言った。 ナイロンバッグは何の飾りもないシンプルなものでたたむと小さくなるものだった。
 二人とも今はもう現役を引退した(ばかりの)キャリアレディと言うところだろうか?
 合理的な考え方をする典型的なビジネスウーマンの名残があった。
若い頃は二人ともスペインの高校に留学しその後ドイツの大学で学んだという。
スイスという国は公用語はフランス語ドイツ語イタリア語の3つ。
それで英語とスペイン語の5カ国語を話せるスイス人はざらだという理由が分かった。

あかねさす 紫野ゆき 

あかねさす 紫野ゆき 標野しめのゆき 野守のもりは見ずや 君が袖ふる
(茜草指 武良前野逝 標野行 野守者不見哉 君之袖布流
高校時代に真面目に古文の勉強をした人なら誰もが覚えている歌である。
額田王が大海人(後の天武天皇)に向かって詠んだうた。

 紫野は紫根草(通称紫草:”むらさき”と読む)の栽培してある土地。
高貴な古人のみが着用する事を許されていた衣服の色、古代紫。
その染色に用いる色素染料の原料で薬草としても用いられたのが紫根草。
 紫野というのはその栽培地のことである。
 病に臥した高貴な人が紫色の鉢巻きをして闘病している様は誰でも一度は何かの折りに目にした事があるはずだが、当時からその薬効が知られていた証と言える。
 縁あってこの絶滅危惧種と言われる紫草(むらさき)の栽培に日本で初めて成功した石川氏と知己を得た。
 彼が
美しい古代紫に染めあげた布地に染め抜かれたこの歌に古人の感性の豊かさを再発見させられる事になった。

2007年4月13日金曜日

相手の立場になってものを考える事

が出来ない人間が如何に多いか最近分かるようになった。
 家庭内では嫁姑の間の確執などもこの類かも知れないがこの程度は少し努力すれば問題にもならない。
 しかし社会的な問題では利害関係が対立している時にこれが出来るか出来ないかで結果は正反対のものになる。相手の立場に立って考えるというのは言い換えれば思いやりである。
 争い事の原因というのは相互の無理解や理解不足によるものが多いが、一方が加害者である場合
被害者の立場でものを考える能力(つまり思いやり)が加害者側に著しく欠如していると間違いなく争議になる。
 少々の意見の申し入れでは全く取り合う気にもならない、少し強く抗議されて初めて相手の話を聞いてやろうか程度、いざ本気で怒って抗議されて初めて事の重大さに気付く程度なのが普通である。
 そして具体的に争議が訴訟に発展しないと本当に反省すべき事にさえ気付かない。
 もちろん言い分というか正当性というか、争議の場で議論になって初めて本音が出てくるような場合、やはりとことん双方の主張を述べあい裁判所など第3者の判断を仰がざるを得なくなるのは仕方がない。
 しかし加害者側の判断に根本的な誤りがあった場合はそれを前もって正そうとしても無駄である。



 

流行を追う馬鹿になれ。

最近の若い人達はこの点で極めて素直だと思う。
ファッション雑誌を見て気に入ったスタイルがあると即自分のおしゃれに取り込んでしまう。
中高生など特にその反応のスピードが速い。
躊躇など殆どしていないように見える。
おしゃれに関して言えば一昔前に比べれば男の子も含めて皆ファッションの追っかけをしている。
流行を追いかける馬鹿?になりきれるということは、彼らが彼らの人生を生き生きと送っているという事だ。
世の中が平和で豊かだから出来る事である。

シュトーレン

というパン(ケーキのような菓子パン?)がある。
ドイツのクリスマスの時期だけ作られるドライフルーツなどがいっぱい入ったワインによく合うパンだ。
保存も室温で日持ちが良いので長期間食べることが出来る。
少し堅めになってから薄く切ってワインのつまみにもなる。
リキュールなどを加えてしっとりとさせておくと適度の柔らかさで食べやすくなる。
パン生地の作り方はあまり変わらないが一時発酵後にフルーツ類を混ぜ合わせてまた寝かした後焼き上げる。その後グラニュー糖をたっぷりと使い甘く甘く仕上げた上に、最後に粉砂糖をモンブラン状に塗してやるとクリスマス用のパンケーキ、シュトーレンの出来上がりだ。
時間があれば毎年11月の末から12月の初めにたくさん焼いておき寝かしておく。
そしてクリスマスのプレゼントにすると確実に喜んで貰えること請け合いだ。
去年は忙しすぎて全く焼く時間がなかったので今年こそと思っている。

流行遅れの馬鹿になるより

「流行遅れの馬鹿になるより流行を追う馬鹿になったほうがよい」
というのはカントの言葉である。
が流行を追いかける事についてじっくりと考える人などいはしないだろう。
果たして流行を追いかける事は馬鹿のすることなのか?
という問いにそうだと答えるのは自分自身に対する欺瞞である。
流行を追いかけるのは極めて自然な事だからだ。
人間は生きているという証に目の前の事物に反応する。
はやりの色に反応し、流行のデザインに反応する。
流行の音楽に体の方がリズムに合わせて踊り出す。
流行のドラマを見て心の底から涙する。
これらは皆自分の視覚聴覚味覚臭覚触覚の5感を総動員しての反応である。
流行に取り残されるのはやはり5感の感受性が鈍いせいだと思った方が良いようだ。
理屈抜きに人間の心身は回りの環境に反応して生きているのだから。
流行を追いかけられない人は人として人生を生きていないとカントは言っているのである。

Way of thinking と How to think

直訳するとどちらも「考え方」と言うことになるが意味は大きく異なる。
 Way of thinking(ウェイオブシンキング)の方は、物事を考えるときの正しい思考過程がすでに確立されている。
つまりすでにその人が獲得している知恵を働かせて考える事を意味する。
  以前ユダヤ人のアパレル会社の社長とパルマのトラットリアで遅い夕食を取っている時に、「今の日本のアパレル業界の考え方は間違っている」と言おうとして、私がHow to thinkという表現をしたら、即座にWay of thinkingだねと訂正された。
 その時はリスクのない受注生産とリスクの高い見込み生産について自分の見解を述べたかったのだが言われてみないと分からないものかも知れない。日本語に訳すと同じになるが全く違う言うことに内容になる事に気付かずに使っていた。
そして更に指摘されてすぐに気付いたのがユダヤ人というのは物事の考え方を民族全体の知恵として賢く継承しているということだった。ユダヤ教の神との契約として知恵を残している。だからみんなもれなく賢いビジネスマンになれるのだと思った。
 How to think( ハウトゥシンク)の方はどのように考えるべきかという意味合いで漠然とした状態であり、まだ解決策など遙かに遠いところにある時に使う表現である。
知恵がまだな いときの表現である。
だからhow to think の頭がいくつ並んでもいつまで経ってもいい解決策が生まれないのだ。

Sangeet サンギート その2


 彼はこの教団でMeditation(瞑想)とTherapy(癒し)を通してギター人生の蹉跌を乗り越えたのだと言う。
つまりプロとしての迷いが生じ悩んでいた時に仏教の教えに救われたという事である。
 現在、冬場はそのWhagwanOSHO率いる教団のあるプネで暮らし、夏場はルクセンブルグを拠点に世界中でギターの指導をしたり演奏会をしたりしながら暮らしているらしい。
 台北からの便に乗り合わせた際に彼は大切そうにギターを抱えていて搭乗後に客室アテンダントにかなり高級なギターなので注意するように告げながら預けた。
 後で調べたら ANTONIO MARIN MONTERO と言うグラナダの有名なギター製作者のつくったものだった。バイオリンほど高価ではないが最低でも市価150万円以上はするいわばストラディバリに匹敵するようなものだった訳である。荷物と一緒に預けるわけにはいかない道理であった。
 その後一度オランダのスキポール空港からの帰国便に乗ることになった時にパリから陸路ルクセンブルグに立ち寄ったが地方に出かけていて留守だった。事前連絡も無しに行ったのだから当然なのだがあえなかったのは残念だった。お陰でルクセンブルグ城の散策の機会に恵まれたのは感謝せねばならない。

Sangeet サンギート

Joaquin Prats ホアキンプラート と言う名前が本名である。
世界的なギタリストであるロドリゴの直弟子のスペイン人のギタリスト。ロドリゴ教授が指導するマドリッド王立音楽院でPrize of Honorを得ている。
カナリヤ諸島の出身で夏はルクセンブルグ、冬はインドのムンバイの隣のプネに暮らしている。
台北からの乗り換え便で隣の席になったのがきっかけでバンコックまでの4時間を仏教論議で潰すことになった。台北での音楽指導の帰りでビザの書き換えをするためにバンコックに向かっているとの事だった。
彼は仏教徒である。宗派は何というのかはよく分からないが教祖はBhagwanShreeRajneeshという。
彼のギター演奏のデモテープやOSHO(日本語の和尚)discourseという説教の入ったテープを別れ際に貰った。OrangebookとThisVeryBodyTheBuddha(その宗派の基本的な教義が書かれたもの)の2冊の本も貰ったのだが英語が面倒なのでまだぱらぱらと眺めた程度でそのままにしている。
 

2007年4月12日木曜日

作家五木寛之氏と数学者藤原正彦氏の

同じ引き揚げ体験者としての対談が文春五月号に掲載されている。
最近母親で作家の藤原ていさんの「流れる星は生きている」を読んだばかりだったので興味深く拝読した。
藤原氏
の著書を初めて読んだのは「国家の品格」が最初で、藤原ていさんが著者の母親であること、そして非常な戦時体験を書いた本の存在を知って読んだのが「流れる・・・」である。
次いで
「若き数学者のアメリカ」「古風堂々数学者」の二冊を読んだ。
最初の国家の品格は品格を無くしてしまった現在の日本を憂う本である。
ベストセラーになって一躍一般世間に名を知られることになった名著である。
今の時代の日本人全てが読むべき本だと思う。
それぞれの著作から、藤原ていさんの引き揚げ記録の中ではまだ二歳の幼子だった藤原氏の、これまでの生き様が伝わってくる。
我々日本人の今のあり方に警鐘を鳴らしている。

2007年4月11日水曜日

知恵とは

 具体的にどんな事が出来る能力を言うのか?
 パソコンや携帯電話そして電子手帳・電子辞書を使いこなす能力もあるだろう。
 パソコンなどを利用してインターネット上のデータや情報を解決のために利用できる形で瞬時に取り出す能力である。何をどのように調べれば解決の糸口にたどり着けるのかを知っている事が重要だ。
 いま課題として直面する問題に対しそれを解決する手だてが求められている時に問題を解決していく手順や手だてを考えひとつずつすべて片づける。使える手段は問われない。
 ありとあらゆる方法の内で最も効率的で短時間に問題を解決する能力こそがいま最も重要になってきている。時間もコストも小さい方が良い。消費エネルギーも同じだ。
 賢さや知恵が求められているのである。
 知恵やひらめきは感性の豊かさから生まれる。
 筋道を立てて論理的に考える能力と感性の豊かさを養わなければならないのはその為である。
自分の頭の中に知識を蓄えておかなければならない時代はもう終わったのである。

知恵と知識

 これからの社会では知識を持っているだけの人間(普通専門家と呼ばれている人)の価値がどんどん無くなり代わりに知恵のある人間すなわち問題解決能力のある人間や企業が価値を持つようになる。
 専門家と呼ばれる人達のありようも今後はその専門分野の問題解決方法(知恵)を重視されるようになる。
IT業界ではこの問題解決の方法の事をSOLUTION(ソリューション)と呼んでいるがまさにソリューションが全てにおいて優先されるようになってきている。
 GOOGLEを持ち出すまでもなく今知らないことを調べたければパソコンの前に座りキーボードを何度か叩けば答えの候補が瞬時にリストアップされる。
世の中の出来事もあっという間にネット上に現れる。
 詳しいことを知りたければキーワードの入力ですぐさま関連情報も手に入る。
 研究者達の論文さえ見ることが可能である。
 知識だけを売り物にしている職業の人達が淘汰されていくのも時間の問題と言われるのはこの事なのである。
 プロフェッショナルの定義が変わりつつあるのである。
 カンニングオーケーの時代になる、と言う表現で大前研一は言及しているが従来の試験そのものが辞書・参考書・パソコン持ち込みオーケーの試験スタイルになるかも知れないのだ。
 これからの世の中で要求される能力が変わってきたと言うことである。

2007年4月10日火曜日

デジカメの事

 デジカメの走りはカシオである。
最初にデジカメを買ったのはQV10というcasioの機種だった。
 世の中に初めてデジタルカメラという名前が認知された最初だった。
 イタリア旅行に早速持って行き現像することなく画像の記録を後でチェックした。
 それからもう10年以上が経ち、目覚ましい技術進歩がデジカメの性能も大幅に向上させた。
 画素数は100倍、手ぶれ補正、動画の録画などなど。
 メモリーも容量は大幅に大きくなり容積は極端に小さくなったし、重量も軽い。
 操作性も向上どころではない。
 通信機能と連動してメールも手軽に送れる。
 至れり尽くせりの上に価格もどんどん安くなっている。
 消費者にとってこんなに嬉しい事は無い。

株価がどのようにして決まるかを

皆分かっていて株式の取引をやっているのだろうか?
と、時々不思議に思う。
ライブドア事件のような事が起きて初めて大量の株取引の被害者が明るみに出た。
しかし株価は会社の実体とは遠く離れたところで決まっていくものだという本質を知っていれば別に不思議でも何でもない事ではないか?
 株価はいろいろな要因で影響を受けるが、一番の要素はその会社の将来の資産価値が増えるか減るかを決める情報である。将来この会社は新製品で利益が出そうだとなれば買い手が増え、元々買っていた値段より高くて売れれば利益のために売る人が出てくる。その折り合いの中で取り引きの株価が決まりその取り引き実績を基に新しい株価が決められる。買い手がひどく多くて売り手が少なければ株価は当然高騰する。買い手が高い株価でも買いを入れればその値段で取り引きが成立する。
その格差が大きく開けば開くほど会社の実績から遠く離れたところで株価は落ち着く事になる。いつかは実績より高すぎる分の揺り戻しが来るはずだから最終的には実体よりも高く買った人は損失を被る事は当たり前である。株で損をしたと言う人はだからどんな理由であれ文句は言えないはずである。

庭いじりと土

 我が家の敷地の土は少し深いところは岩盤が風化した赤土である。
 裏山は全体が風化した岩盤である。
雨が降ると粘土状になり黄褐色の泥水が流れ去った後にはほんの僅かな砂が残る程度である。
有機物を含む厚さ約二十センチの表層土から下は花や野菜の生育には全く適さない酸性土である。
盆栽には向いているようであるが通常の発育を望むには向かない。松やつつじやツゲなどの庭木があまり大きくならないのは良いが。
 従って野菜や草花を育てるには生育に適した培養土を客土してやる必要がある。
その前に苦土石灰を撒いて少しでも中和してやらねばならない。その上で客土して出来るだけ酸性化しないように気配りしてやる必要がある。屋敷内の井戸水も酸性なので水やりにさえあまり向かない。
 この事に気付くのに結構時間がかかった。枯れる事はなくとも成長しないものが多すぎるのである。
 土壌の酸度を調べるために酸土計を買って初めて分かった。
 植木鉢に入れる土も全て購入する必要があるが最近はタダみたいな値段で培養土が手にはいるようになったので有り難い。
 植物の種類毎に鉢土の混合比も変えなければ最適の環境を与えた事にはならない。

 

日曜大工・日曜園芸

 最近ホームセンターが日本中のあちこちに出来たお陰で日曜大工や日曜園芸に取り組む人が増えてきたようだ。
 自分もその一人だが日曜大工や園芸をやるようになって明らかに良くなった事がいくつかある。
まず体を動かす事で体力の強化が出来る。汗も流すので脂肪分の発散にもなり肥満の解消も出来る。
次に精神的に大らかになる。のんびりした気分になれる。大工仕事でも創造的に頭を働かすにはリラックスが必要である。そして、自分自身の環境が自らの努力で改善できる。これが実は最も大きなメリットであろうと思う。整理棚やテーブル作りに始まって、家の回りの修理やウッドデッキ作りなどなど毎日の生活環境が変えられる。園芸の方では花瓶に挿す花も観葉植物も注意深く世話をしてやるようになる事で気持ちが繊細になる。野菜作りも簡単に出来るので毎日新鮮野菜そのものが食べられる。植物の成長を見守る事で自らも生きている喜びを実感できる。作業中に小鳥達がやってきて囀りを聞かせてくれるのも心が和む。みみずや蝶々にも生命の躍動を感じるし、季節毎に咲き乱れる花たちも全て自分の為に咲いてくれているのだという気持ちになる。
 この瞬間瞬間こそが日曜園芸の醍醐味ではなかろうか。

車の燃費

 今トヨタのプリウスに乗っている。
一回目の車検を済ませたばかりなので4年目に入る。
 購入は試乗してその場ですぐに決めた。
 理由は簡単。コストパフォーマンスにおいて他に類を見ないからである。
 ハイブリッドエンジンというトヨタの新開発技術のお陰で馬力(パワー)も燃費も比類がないとはこの事だ。
 それまで乗っていた車はリッター当たり7~8キロメーターしか走らなかったのにプリウスはなんと平均でも24キロ。コースにかなりの山道の上り下りを含んでいてもあまり変わらない。
 燃費の節約の合計で今までの車の買い換え周期だと一台分のおつりが来る。
(搭載してあるバッテリーの買い換え寿命の事は今はまだ問題にしていないが)
 これまでの燃料代がばかばかしいほどなのだ。
 それっきり大きい車は無用の長物になってしまった。
 だから車検を一年残してこの3月末で廃車にした。
 別にトヨタの宣伝を頼まれたわけではない。本田の車にもハイブリッドの低燃費車があるのは知っている。しかし評価する機会がなかったからプリウスについて書いただけの話である。

携帯電話

 丸3年間使ってきた携帯電話を必要に迫られ最新型の機種に換えた。
一言で言うとたった3年間ですごい進歩である。
 何でもありでパソコンの代用が殆ど出来てしまう。何よりも画像データがきれいに表示可能になった。
 新しい機能としては、テレビ(ワンセグチューナー)、ラジオ、Felica(お財布携帯)とPCサイトビューアーなどがある。パソコンとのデータのやりとりも出来る。
 パソコンと同じレベルでネットにもアクセス可能になった。google検索も容易に出来る。
 キーボードからの入力がパソコンに比べて今イチ不便なのが玉に瑕ではあるがこの小さいボディから考えてもココまで来た事に改めて驚いている。
 気になっていた通信料金も固定料金が適用されるようになったので安心である。
 Bluetooth機能のお陰で自動車の運転中も会話が出来る。ナビ機能で東京や大阪でも迷子にならずに済む。
 電灯・辞書・スケジュール・メモ・日記・音声メモ・電話録音などなど電話機とパソコンの機能は殆ど全て網羅されている。
 標準で1ギガバイトのメモリーも搭載されており一昔前の高性能パソコンも敵わない。
動く書斎のようなものである。

自分自身の言葉で語らねば

受け入れられない時代、人の受け売りや嘘偽りも通用しない時代になった。
誠実に語られた真実でなければすぐにバレてしまう世の中になった。
ネットのお陰である。実に公平な世の中になりつつある事をまずは喜ぼうではないか。

ウェッブ2.0のもたらす効用はこの社会を変革しつつある。
現にこのブログがウェブ2.0の産物である。
パソコンさえ記憶装置の要らないもので済む。勿論ネットの向こう側にデータを蓄える装置が存在しているからだが、ネットに繋がりさえすればすべてOK!!の世の中になった。
世界中の何処を旅してもそこにネットに繋がる道具があれば何も要らない世の中になりつつあることを実感できる。情報の管理はネットに一元化されつつある。IDとパスワードさえきちんと管理しておけば良い。

2007年4月7日土曜日

選挙

 全国統一地方選挙の真っ最中である。
 いい加減やめて欲しいと思うのが選挙運動期間中のあの選挙カーからの連呼。
只単に大声で候補者の名前をわめき叫ぶだけの五月蠅いだけの連呼。
 聞く人の頭に名前を刷り込む効果だけを期待しての連呼。
顔写真入りの候補者のポスターも同様なものだ。どうせろくに知らない候補者達なのだ。
立て看板さえももう要らないのではないか?選挙直前になって初めて顔を知ったところでどうなるのだ。
 政策や思想やひととなりなどを知りたいのならテレビで時々候補者の演説や討論会を流せば済むことだ。ボロが出るのをあるいは無能さがバレルのを恐れてたいていの候補者は討論会はやりたがらないが。インターネットで選挙民が見たい時にいくらでも見れるような形も今は一切金をかけずに出来るのだから。
しかし選挙民は(解っているのかも知れないが)今の選挙運動のやり方を誰もやめようというものはいない。
 どうせ本当に自分たちに取って一番必要で最適な候補者が誰なのか判断できる人はいないのだから、ほとんどが「一番熱心に頼まれた人にでも入れようか」、「金や賄賂を持ってきた奴にでも入れてやろうか」、というのがおおかたの選挙民の有様だ。
 たった今まで名前さえ知らなかった候補者が突然立候補してあらゆるコネを使い接近し投票を依頼する。選挙カーで連呼する。人物も能力も知らない。経歴が僅かに分かるが実質的な政治家としての能力は全く未知数のまま投票日になる。結局金とコネを多く使った方が有利なのはそのせいである。
 テレビもラジオもインターネットのように便利なものも昔はなかった。
 昔からある新聞さえも充分に利用しているとは言えないのにという向きもあると思う。
 が今では選挙運動や投票の方法はいくつでも考えられるはずである。
  インターネットは随分普及してきたし選挙運動だけでなく投票そのものも、その気になればもっと効率化出来る。
 最初のシステムを構築する費用が少しかかるかも知れないが、あとは費用もタダ同然である。
 政治の本質は利権利害の調整である。だから選挙が利権争いの場になるのは避けられない。当選できるのは支援者達のお陰だ。だからといって支援者の為に一般の住民の利益に反する行為は許されない。一部の人達のために利益誘導することは許されない。馬鹿な有権者が目先の利益のために長期的視野での利害に気付かず馬鹿な選択をするのはとんでもない民主主義である。旭川市の例を挙げるまでもない。

理想の夫婦って?

どんな夫婦だろうか?
それは欠点を補い合いお互いを高め合える夫婦ではないだろうか。
長所を尊敬し合える夫婦と言い換えてもいい。
人間誰でも欠点は一つや二つどころか数え切れないほど持っているものだ。
それをいちいち論っていてはたちまち離婚する羽目になってしまうだろう。
やはり良いところを素直に評価し合って自分の悪いところを反省しながらお互いに高め合って成長して行けるのが理想ではないだろうか?
男の決断力や女の粘り強さ・忍耐力など
男と女は性の違いからだけでなくそれぞれに互いに無いものを持っている。
だからそれぞれが精神的に落ち込んだ時も支えあえる。
相違点に着目するだけでも互いの良いところは必ず見つかる筈である。

出張パックツアー

 最近東京への出張にはパックツアーを使うようになった。
便利で安いからと言うのが理由である。
以前は頻繁に出かける必要から超割やら特割やらを利用するために2ヶ月もまえから予約を入れ、時々は日程の調整が出来ずにキャンセルということも多かった。
 そしてホテルも思うように取れなくて困ったものだ。
 パックを利用するようになってホテルの事で悩むことがなくなった。
ほぼ出張先に都合の良いホテルで予約が取れる。
予算も明朗会計と言える内容なのが良い。
 10日前までの予約が可能なので出張直前になってからの予定が立てられる点も便利である。
 支払い決済もネット上から出来るしクレジット支払いも出来る。
 これも皆ネットのお陰かも知れない。

新製品

 モノ溢れの時代になった。
 どんな分野であれ新製品の発売ラッシュである。
これまで目にしたこともない商品がこれでもかと言わんばかりに次から次に出てくる。
 さすがに新しモノ好きの自分も「もう良いよ、いい加減にしてくれないか」と言いたくなるほどのモノの洪水である。
 エレクトロニクス製品やIT関連品のような科学技術の進歩による超便利なモノだけではない。
 人類の限りない叡智のたまものとも言うべき豊かな感性が生み出した文化的なモノまであらゆる分野の新製品。
 長生きしたお陰でこんなモノにまで巡り会えるなんてとお年寄り達が言うのもむりからぬ事。
 おいしい食べ物、生活を快適にそして快楽に変える道具、健康増進に役立つモノ、エンターテインメント関連ではDVDやらゲームマシンやらとにかく何から何までも全てが充分すぎるぐらいである。
 こんなにも満ち足りて本当に良いのだろうか?
 何か欲しいものある?と小さい子供に尋ねるテレビのリポーター、返ってきた答えは「別に何にも要らない!」だった。子供は常に何かを欲しがるものだという認識はもう過去のものになったようだ。
 今という時はいみじくも「文化は後から付いてくる」と言った角川の言葉が現実になりつつある時代らしい。

勤めにでる必要がなければ自分で仕事をした方がいい?

自分で何か収入が得られる仕事があるなら務めになど出ないで自分で事業を興せばいい。
人の人生は収入の多い少ないでは計れない。
たとえ収入が減るかも知れなくともその仕事が今より楽しく気持ちよく出来るものならそちらを選択すべきだと思う。
務めに出ることがつまらないからやめろと言っているわけではない。
自分の人生は出来うる限り自分自身の手で切り開いていく方が楽しいのではないかと言っているのだ。
人の引いたレールの上を行くのが楽だし、あれこれその都度の判断・決断を迫られることもない。
勿論人によっては何も考えずに人の後からついていく方が好きな人もいる。それはそれで良いと思う。
仲間と協力しながらやる方が能力を発揮できる人もいるだろうからそれはそれで良いと思う。
独立して何かを成し遂げていくのは並大抵のことではない。
特にこの数年来の経済環境の悪化で独立するための条件がより厳しくなった。
今はじっとおとなしくしていた方が賢明な時代かも知れない。
何も好き好んで苦労を買う事もない。

人は常に成長できるし変革できる。

人の細胞は日々更新されている。
新陳代謝というのは古い(陳)細胞が新しい細胞に生まれ変わることだが生きている限りこれが止まる事はない。
 だから人は日々いつでも生まれ変わっているとも考える事ができる。
 精神的にも人は生まれ変われる。成長できる。
 それを妨げるのは自分自身の思いこみや考え違いであることが多い。
それ以上に他人の思い込みは人の精神の変革成長に最も妨げとなっていると思う。
偏見はその最たるものではなかろうか?
人は思い込みが強いと他人の成長をなかなか認めようとはしないものだ。

政治家への献金について

政治資金規正法という法律がある。
じつにおかしな法律だと思う。ざる法と言われる所以だ。
そもそも政治資金と言うのは何を意味するのか?
その出所は平たく言えば支援団体や支援者からの寄付金や献金だ。
寄付金や献金の受領と収賄とは何処が異なるのか?相違点は直接的賄賂性があるかないかだけではないのか?
議員や首長になるための政治運動にかかる費用を寄付金や献金などで賄ってよいものなのか?
支援者というのは何のために政治家を支援するかというと自分たちが将来利益を得る為である。
従っていろいろと呼び方を変えたところでそれは間接的賄賂に他ならないのである。
この点で既に公平さを欠いているのだから建前など意味をなさない。
本質は賄賂で当選の暁にはどうぞ便宜を計って下さいねという賄賂の手付け金のようなものと考えた方がすっきりする。
政治団体や業界団体も似たようなもので要は当選後の利益誘導をしているだけである。
本当の政治活動をするために金が果たして必要なのか?
本当の政治活動のために必要な資金(殆ど調査経費のみではないか)は当選後に活動に必要な額を厳正な管理の元に給付すればよい。

なぜ人のものを盗んではいけないのか?

という問いに対する答えも同じだと思う。
今更答えを考えるまでもない。
当たり前のことだ。
くどくどとそれらしい理屈を言うよりも、いけないことだからいけないと言えば済むことだ。
小賢しい理由や理屈を言ったところで、盗む人間は盗む。
盗むと罰されるから盗むな、などというのは最悪だ。

なぜ人を殺してはいけないのか?

 という問いかけに即答できる人は少ないだろう。
 人を殺してはいけないというのは当たり前のことだがいざ理由を求められれば考えざるを得ないから考える。
 いちいち当たり前のことの理由や説明をしなければならない時代というのも生きにくいものだと思うが
 社会の通念というものが壊れてしまったらこんな世の中になるのだろう。
 昔は「親孝行しなくてはいけないよ」とか「子供は甘やかしたらだめだよ」とか、社会全般に共通する考え方・認識というものがあった。
 これらはすべて生きていく上での知恵としての言葉である。
自分たちが幸せに生きるためである。

 ではイラク戦争にしろベトナムにしろ「戦争で人を殺しているのは良いのか?」という問いかけにはどう答えるか。
「人の命はかけがえがないのだから大切にしよう」、とかいかにもマスコミやら似非文化人やら似非ヒューマニストが喜びそうな「期待される答え」が前提にある設問である。結論を言おう。設問がおかしい。
 何が原因であれ人が人を殺すとき正当化できる理由は何もない。
 理由が何であれ人は自分の利益のために人を殺すのである。
自分達の国益の為に、自分達の宗教の為に人を殺す必要があるから殺すのである。
そこには人道もない。愛もない。あるのは自分あるいは自国の利益と都合のみである。
だから「人殺しはたとえ戦争であれいけないことだ」と言ったところで何の解決策にも繋がらないのだ。

進路

大学の入学式のシーズンである。
人生を左右する新しい旅立ちがそれぞれに始まる。
将来の職業に最も相応しい分野の専門コースを選択し4年間あるいは2年間の間に単位取得を目指す。
大学生活というのはそういう意味では卒業と同時に就職する資格を身に付けるのが目的ということになる。
だから大学の専門分野の選択を間違えれば就職も失敗する可能性がある。
 我が家の次男はLiberalArtつまり一般教養課程を取り、更にそこから興味のわいた専門分野に進ませるつもりであった。
しかしその後ファッション分野では名の知られた大学の大学院コースに進んだのだが途中でやめて今は一応?法律の勉強をしながら塾の講師をしている。
果たしてそれがものになるかどうか不安であるはあるが人生なんてそんなものかもしれない。
本人が至ってのんびりしているのでそれでいいのではないだろうか?

カエル事件

 最近探し物をしていて息子の部屋で偶然にもみつけたモノ。
ふとしたきっかけというのはこんなことを言うのだろうと思う。
25年近く前の事を思い出した。
長男がまだ3歳か4歳頃の事ではなかったかと思う。
家族4人で滅多に行かない買い物に市内のアーケードまで出かけた。
そのときは何かイベントが行われていた様だ。
アーケードの中に珍しく屋台のお店があって、テキ屋のおじさんのかけ声につられて長男がその商品の並ぶ台に近づいて何やら手にとって見始めた。
 それはカエルの親子の大中小の小さな小さなゴム状の模型に緑の色で彩色されたかわいらしいものだった。
 子供にとっては結構高価なものだったと思うが、子供の気持ちをあまり確かめもせずに「さあ行くよ」と促してその蛙を元に戻させその場から離れた。
 子供はいつものようにとことこと後から付いてきていた。
 ところが家に帰ってからふと見ると子供が右手をしっかりと握りしめている。
 どうしたのかなと思って手を開かせると僅か数ミリの赤ちゃんのカエルであった。
 すぐに事情は分かったが今から返しに行くわけにも行かない。第一もう既にお店があるかどうかも分からない。長男には「何故人のものを黙って持ってきてしまったのか」「それは盗みだよ」と話して聞かせ盗みは一番いけない事だと懇々と説教をした。長男は手にくっついて離れなかったと言った。置いたつもりがそのままくっついてきたらしい。確かに子供の少し湿りがちの手にそのゴム製のカエルはくっつきやすいのである。その場は今後の注意をして納めることにした。「テキ屋のおじさんごめんなさい」と子供はつぶやいた。

初めての原稿料

「諸君」という雑誌がある。
40年ほど前に創刊された雑誌だが今も何とか生きながらえているので雑誌としては息が長い。
コンセプトがしっかりしているせいかも知れない。
ファンがしっかり付いていなければ続かないはずだからそれが証拠だ。
 その諸君に大学2年の時に生まれて初めて投稿した。
ものを考えるとはどういう事かについて書いたものだった。
「自分でものを考えるということ」と「客観的に見る考えるということ」についてだった。
マルクスの資本論に出会い共産主義理論の講義を初めて受けた大学の教養部時代のことだから科学的なものの考え方と主観との間に魂が揺さぶられ何がなんだか正直頭の中がすっきりとしなかった時代のことだ。
結論から言うとものを考えるのに客観的という言い方はおかしいという内容だったと思う。
「客観的」という言葉は「事実」に繋がる言葉で、「客観的事実に基づき考えるのが主観だ」ということである。という風に書いた。この原稿料が生まれて初めて雑誌社からいただいた原稿料で確か当時3千円だった。ひと月の生活費が1万5千円か2万円の頃である。学食のランチが100円から150円だったので大いに嬉しかったのは言うまでもない。

2007年4月3日火曜日

生まれては死ぬるなりけりおしなべて 釈迦も達磨も猫も杓子も
世の中は食うてはこしてねて起きて さてそのあとは死ぬるばかりよ 
                           一休宗純禅師
 かの、頓知比べの一休さんのことばである。

2007年3月31日土曜日

最近読んだお勧め書 その5

ハーブ事典―ハーブを知りつくすAtoZ
藤田嗣治「異邦人」の生涯
色の名前で読み解く日本史
ユダヤの力(パワー)―ユダヤ人はなぜ頭がいいのか、なぜ成功するのか!
やさしいお経の話
匂いのエロティシズム
ファッションデザイナー―発想からビジネスまで
最強の経営学
デパートを発明した夫婦
なぜこの店で買ってしまうのか―ショッピングの科学
行きやすい買いやすい店舗―ホスピタリティを実現する

最近読んだお勧め書 その4

木工が200%楽しくなるルーター&トリマー使いこなしマニュアル―アメリカンウッドワークの神髄工具を完全攻略
日曜大工が楽しくなる電動工具徹底利用術―自分に最適の工具を選んで、思いっきり使いこなしてみよう
パワー・ブランディング 統一性と結束をもたらすブランド・ロードマップ
「女と時間」 ビジネスの種はここにある
営業のビタミン
フィレンツェの職人(マエストロ)たち
クラシコ・イタリア礼讃
「体を温める」と病気は必ず治る―クスリをいっさい使わない最善の内臓強化法
なぜ美人ばかりが得をするのか
魯山人 もてなしの真髄
ハーブ事典―ハーブを知りつくすAtoZ

最近読んだお勧め書 その3

「お料理ことば」基本のキホン―作る前に知っておきたい
ひと言のちがい〈2〉それでいいんだよ―心と心を合わせる108の話
快楽の脳科学~「いい気持ち」はどこから生まれるか
ガウディが知りたい!―建築・デザイン・アート・人物・謎が丸分かり
ガウディ―建築家の見た夢
木工の伝統技法
木がわかる―知っておきたい木材の知識
工作と修理に使う材料の使いこなし術
木工レベルアップ術―自分のアイデアを実現する
日曜大工を極める道具の徹底使用術―自分の作業に最適な道具を「探す」「理解する」「使いこなす」
初めて学ぶ図解・ツーバイフォー工法
DIY道具事典―電動工具・手工具・測定道具・完全ガイド

最近読んだお勧め書 その2

ハイ・コンセプト「新しいこと」を考え出す人の時
「建築学」の教科書
イサム・ノグチ生誕100年
知る!使う!作る!うるしの器―あなたにもできる漆器作り
Casa BRUTUS特別編集 イサム・ノグチ伝説
ブルー・オーシャン戦略 競争のない世界を創造する
“新富裕層”マーケティング
有機ゲルマニウムの科学―可能性に満ちた多彩な機能性の全容
Woodworking With the Router: Professional Router Techniques and Jigs Any Woodworker Can Use (Reader's Digest Woodworking)
Router Magic: Jigs, Fixtures, and Tricks to Unleash Your Router's Full Potential
モーツァルト療法 ~音の最先端セラピー ~1.もっと頭の良くなるモーツァルト ~脳にエネルギーを充電する音
「男」のおしゃれ―ファッションには生き方があらわれる

最近読んだお勧め書 その1

これから何が起こるのか
流れる星は生きている
心の動きが手にとるようにわかるNLP理論
広告マーケティング21の原則
広告でいちばん大切なこと
建築家の講義 ルイス・カーン
ガウディの装飾論―20世紀に見失われたガウディの思想
たった1行で!売る お客様が思わず買ってしまう商品「キャッチフレーズ」の極意
プロフェッショナルマネジャー
ガウディのフニクラ―カタルーニャの曲線
ガウディの伝言
グーグル―Google 既存のビジネスを破壊する 文春新書
ネクスト・マーケット 「貧困層」を「顧客」に変える次世代ビジネス戦略
ウェブ進化論 本当の大変化はこれから始まる
ロウアーミドルの衝撃

2007年3月30日金曜日

carpe diem カルペ ディエム

「今日を楽しめ」
という意味のラテン語である。
古代ローマの詩人
ホラティウスの言葉である。

金・権力・名誉

人は皆この順番で欲望を叶えることが理想らしい。
 政治家を見ても、実業家を見ても最後に欲しがるのは勲章だ。
 教育者とて同じだ。
功成り名遂げた人というのが人生の理想だと言うことになっている。
これが世間の常識だ。
そしてその目標の達成のためには人を欺いたり金や権力にものを言わせる。
 権謀術数を労する。
 しかし本当によくよく沈潜して考えれば自分自身そんな事は空しい事だということに気付いている。

2007年3月29日木曜日

人は生まれ苦しみそして死ぬ。

人生の意味などないのだ。生き甲斐などないのだ。
だからこそ精一杯与えられた命尽きるまで生きようではないか。

お釈迦様はこだわり」を捨てよ。執着を捨てよ。欲を少なくして生きよ。と、諭しておられる。
般若心経に要約されているのは、これさえできればすべて解決さ、という卓見である。
 モノを限りなく欲しがる強欲さが人間からなくなればモノを奪い合うための争いもなくなる。
他人が自分の思うがままに成ることをを欲する気持ちも捨てれば宗教戦争もなくなる。
 人はこの世に生かされているだけだ。
 だから精一杯生きればいい。
人生の意味を考えるのも良い。
精一杯悟りを開くまで努めればいい。道を求めればいい。
人は皆悟りを求める観音菩薩なんだから。

これすべてはお釈迦様の教えである。
 

最近自殺をする50代が増えているという。

保険の外交員をしているお客さんの話だ。
いずれも借金苦からだという。
サラ金地獄もココまで来ると高利の貸し付けそのものも犯罪として取り締まらない限りこの世の中はどんどん悪くなるばかりだと思う。
借金ぐらいで何も自分の命まで投げ出さなくともと普通は思うが、当の本人はそれどころではないのだろう。
 生活の基本はお金である。理由は何にせよ好きこのんで金を借りる訳ではない。
 ちょっと計算に疎くて、つい安易に気軽にサラ金などから借りてしまい、気付いたら借金地獄というのが殆どであろうと思う。
 利息と自分の収入をよくよく天秤にかけてみれば返せる程度の金かそうでないかは解るはずだが、自殺に至る人間はどうもこの辺のけじめがつかないようで、借りては返しの繰り返しで借金が雪達磨式にふくらむというパターンをたどる。
 利息は恐ろしいという事を考えたことがないのである。
銀行の金利でさえ怖いのに、サラ金やら高利貸しやらのそれは最初から破滅を約束されているものなのだと言うことを誰も言わない。
 まあ、何とかなるさという甘さが命取りになると言うことだ。

本を読むのが大好きな人は

多いと思うが、強制でさせられる勉強や読書を楽しめる人は少ないだろう。
しかし必要に迫られてする読書でも後になって役に立つ事が多い。

 大学の教養部時代に酔狂で第二外国語にフランス語を取ったら、テキストとして「青年と人生をかたろう」(アンドレ・モーロワ著:原題は忘れた)というようなタイトルの原書を読まされた。
 最初は何だ人生論か程度だったのだが、読み進むに連れて面白さにのめり込んでしまった。
 味気なさそうなドイツ語よりは文学的な要素、ロマンティックな雰囲気がふんだんに味わえると思っての選択は今になって思えば正しかったと思う。
 
 モームの「人間の絆」もクローニンの「青春の生き方」も英語の講義で読まされた。
今思えば論理的で的確な情景描写が素晴らしかったのだが最初は苦痛であった。
 読みたくて読んだわけではないがだんだんと面白くなって読了後は感激したものだ。

10.楽しいからその仕事をする。

それ程見返りがなくてもその仕事が楽しいからその仕事をする。
売れる売れない儲かる儲からないは二の次だ。
お客さんと楽しい時を過ごせるのが嬉しいのだ。

そう思いながら働く仲間がいてくれるお店は
どんなにか素晴らしいことだろうと思う。

ビジネスマンという英語は直訳すると実業家という意味だ。つまり平たく言えば商売人ということだ。
世の中の人々の求めるニーズを発見しそれをウオンツに変えていく事が出来る人の事を言う。
利益は後から付いてくる、それが世の中に必要とされる仕事ならば。

9.C6プロジェクト

シトロエンは美しい。
実に美しいのだ。
アランドロン扮するフランスの大統領が恋人の元に急ぎ駆けつけるときに雨の中を激走する場面を思い出す人は多いだろう。
 あのときに大統領が乗っていたのがシトロエンだった。
今のシラク大統領も乗っているという、大統領専用車として。
 ハイドロマティックサスペンションのすばらしさがどの程度のものか乗ったことがまだないので知らない。
しかし分かるのだ。その乗り心地の良さが。
 何故だろうか?

8.子供時代の純粋さ

夢を失いながら人は大人になる。
かすかな希望を杖にして人は老いていく。
子供の頃の純粋さは年とともに
狡猾さやいやらしさに変わる

6.生き甲斐

を持って生きている若者が今どのくらいいるだろうか?
 ただ流されて成り行きに任せているだけだという人がほとんどだろう。
生き甲斐なんてないよ、と言う人も多い。
生き甲斐が見つかるまでフリーター生活を送っていると言う人もいる。
今を生きるときに実感する喜びや悲しみ怒りなどこそが生き甲斐の実体ではないのだろうか。
 
「青春」 と言う 「サミュエル・ウルマン」 の詩がある。
 人は信念と共に若く 疑惑と共に老いる。
 人は自信と共に若く 恐怖と共に老いる。
 希望ある限り若く  失望と共に老い朽ちる。」
この訳者の訳よりも良い訳のものを以前見たことがあると思うが概ねこんな内容だった。

2007年3月18日日曜日

5.日曜大工で道具作り

 家の中で日頃こんなものがあればいいのになあと思っている人は多いと思う。
 ちょっとした踏み台、座椅子、ロッキングチェア、ベッド、本棚、整理棚、テーブル、机などから
窓やドアなどの作り替えなど。
 こんな時自ら作る事ができれば節約にもなるし、様々な要求も充分に満たせる。
 体の適当な運動にもなるし一石二鳥である。
 なによりも自分のイメージした通りのデザインのものが作れるならばこの上ない。

4.男の料理

 昔は、男子厨房に入らず、と言われたものだが最近では男の料理教室なども盛況で料理を趣味にする男性も増えている様子だ。
 遅ればせながら料理をする男の仲間に入らせて貰った自分としては料理をする男と女の違いは何処にあるかを考えて見たい。
 男が料理を始めて一番最初に戸惑うのは何だろうか?
 それはスプーン大さじ1杯、カップ2杯という大ざっぱさではなかろうかと思う。
 塩こしょう少々、鷹の爪1本、ニンニクひとかけなどもその類だ。
 普通男の頭の中にはスプーン1杯というのは何ccの量が入るスプーンなのかがきちんと分かった上でないと受け入れられない構造に成っている。15ccのスプーン3杯なら45ccだから醤油45ccと言った方が自然な言い方ということになる。
 料理の味付けの仕方は女性は味加減を見ながら調味料を手加減しながら決めていくが、男は決められた量から計算して、例えば2人分がこれだけだから4人分なら最終的に何グラムあるいは何cc入れると良いという判断をする。
 根本的な違いはまだまだあるが最たるものはこれだと思う。

2007年3月13日火曜日

3.努力すればそれなりに報われる時代は

 もう終わってしまったらしい。
余程傑出した能力がないと浮かび上がれない時代になった。
逆に人より何か一つでも優れたものがあれば突出するときも大きい。
実にいやな時代になったものだ。 
 昔は人並みの能力しかない人間でも何とかやって行けた。
 能力が人並み以下でも周りの人の温かい助けに支えられながら何とかやって行けた。
  今はどうだろう。人並み以下の能力しかない人間は最低の生活を強いられる時代だ。
人並みの能力があっても、オンリーワンがない人は表現する資格さえ認められないし、存在自体霞んでしまう。
  資産はおろか能力も何もない人間は乞食かホームレスのように矜持も持てない生活しかそこには残されていないかもしれない。そんな冷たい社会に成りつつある。
 働いても働いてもそれに見合う期待報酬が得られない時、喜びを感じることが出来るだろうか?
  自分のしたい仕事できる仕事では飯が食えない、プライドを持てない、楽しく仕事を続けられない。
今は殆どの事が機械化されてあるいはロボットの仕事になった。そして一部の人間達がそれを管理する時代。仕事にありつけない人たちはどうなるのか?皆生活保護を受けて暮らす事に成るのか。
 実に大変な時代に成ってしまった。

2.東京に行けばその度に日本の豊かさを感じるけど

 地方と都市との格差の拡大も同時に感じないわけにはいかない。
田舎に帰ると改めて本当に愕然とするし何となく侘びしささえも感じてしまうのは私だけだろうか?
 最近一番考えるのはこれからも今までのようにのんびりとした田舎暮らしが続けられるのだろうかという事。むしろ田舎の方が暮らしにくくなりつつあるのではないか
 東京と地方の所得格差がどんどん広がっているのは言うまでもないことだが、芸術・文化面でも生活環境の面でも全ての点で地方がどんどん置いて行かれつつある感じがしている。
 同じ東京でも業種間の生産性の格差が所得格差を生んでいるおり結果的に生産性が低い業種は存続不能になって淘汰されつつある。
 正社員と非正社員の所得格差も更に大きく広がってきている。
 格差社会化が予想以上の早さで進行しつつあるのを実感するのは私だけではないはずだ。
 国民の四人に一人と言われる消費者金融に依存する低所得者層は結果的に尚一層、持てる者たちの食い物にされている。消費者金融の原資は元は持てる者達の資産だからだ。
 以前は銀行から間接的に消費者金融を経由していた高利での貸し出しに最近では銀行自ら手を染め始めている
 濡れ手に粟で大儲けできるのならプライドも何のその、銀行や元締めの大蔵省じゃなかった財務省?はヤクザな事に何の抵抗も感じることは無いのか?(日本の銀行マンの社会的地位はもう少し高い位置づけにあったのではないか? これでは欧米のように、低い地位しか与えられていない銀行マン達の仲間入りだ。)
 これらがいかに政策的に行われているか低所得者層の人たちが知る由もない。
 政府自らがこれまでの日本の一億総中流社会から高額所得者層と低所得者層に大きく分離する方向に政策転換した結果、所得格差が広がり、暮らしにくい世の中になってきたのだ。
 一部の金持ちは更に金持ちになるが残りの貧乏人達は余程の努力と機会に恵まれない限り更に貧乏になる社会の到来である。
 今の時代に適合した高い能力があればいくらでも豊かになるチャンスがあるのは事実かも知れない。
 しかしグローバル化しなければ世界に通用しない世の中とは言え、何が何でも全て弱肉強食にするのは動物の世界と同じではないか?
全てが金、金、金。金さえあればほぼ何でもできるし、モノが買えたら幸せになれると皆が考える時代。
 その先には何があるのか?幸せの基準が違うのじゃないか。
 
 
 

 

1.感じるままに

日暮らし硯に向かえるわけではありませんが日々感じることを書いていきます。

 それにしても今年の天候不順ぶりは異常ですね。
2月に4月か5月の暖かい日が続いたかと思えば3月半ばになってまた真冬に逆戻り、東北北海道では大雪とか。
 昨年旧暦で閏の7月が加わった頃にはもう、暑い夏が長引き年明け後の春の訪れも遅くなる事が予測されたのであまり驚きもしないのですが・・・。天気予報の解説者には旧暦をもう少し重視した予報を出して欲しいですね。
写真:小さな木瓜ですが今年はたくさんの花が咲きました。