2007年4月24日火曜日

コスモポリタン

 世界を股にかけると言う表現がある。
コスモポリタンという言葉の意味は、世界的な視野で、国際的な、と言うような所であろうが、お人好し日本人の場合偏狭でない国際人はなかなか育てにくいのではないかとこの頃思う。
 日本の常識は世界の非常識という言葉もあるように、自分たちの考え方が正しいと思っていても世界的な視野で検討すると間違っていたり、見当違いだったりと言う事が多々ある。
 利害関係の異なる人間同士や国同士が同じアイデンティティを見いだすのはなかなか困難なものらしい。
 諍いやすれ違いの元は全てこの一方的な勘違いから起きるように思う。

 

人間のキャパシティ

 機械や道具の処理能力の大きさの事をキャパシティという。
容量というのが原義だが広い意味でその使える能力の大きさを表現するのに使われる。
 同じような意味合いで人間の記憶容量や処理能力の表現にも使う。
 人間もキャパシティオーバーになるとパニックになる。
 処理能力を超えた仕事は手に負えない。年を取ると記憶容量というキャパシティが確実に減少する。

 今はIT(インフォメーションテクノロジー)の発達で随分効率的な仕事が出来るようになった。
インターネットが使える環境にいさえすればほぼ困る事がない。知識はパソコンの向こう側にいつでも用意されておりいついかなる時でもキーボードをちょっと叩けば画面に回答が映し出される。

あるいはNC工作機械やマシニングセンターのインテリジェント化の進歩で自動生産の効率化が進んだ。
ロボットでできる事はロボットにさせる分、人間のキャパシティも頭脳的な面の意味合いが大きくなってきた。ここでも知恵がものを言う。経験を知恵に結晶化する努力こそが重要である。経験を生かした処理プログラムを書ければ仕事は幾らでも効率化できる。

感性について

知性・理性・感性という時、知性や理性のことは理解できるが感性ってなあにという人が結構いる。
感性のことを感覚と勘違いしている人もいる。
では一言で感性とはという問いに答えるとするとどういう答えが最適だろうか?
 漠然とした感じで感性というものを理解しているつもりでいる人。 なんとなく分かるあるいは分かったつもりでいる人。 全く分からないという人。芸術的な意味合いで理解している人。などなど、その感性度合いはさまざまである。
 感性ほど人によって理解度が異なり、身に付き具合(度合い)の違うものも無いと思う。
 理詰めの話なら任せておけという人でも、感性レベルの差がものを言う話になると全くお手上げという人も少なくない。広い意味での感受性を包含する言葉として使う場合これほど便利な言葉もないかも知れない。 人にうまく伝えにくい要素を含んでいる場合に特に便利な言葉である。しかし感性の話だからと言って論理的な説明が出来なくても良いわけはない。芸術作品の評価をするときには勿論感性抜きでは語れない。しかしその場合の感性が専門家だけの範疇のものだという見方も間違いである。
敢えて一言で言うとそれは知識や経験の集積から生み出される第六感の事である。知恵のようなものである。だから感性を磨き上げるには経験を積む必要があると思う。

速読・多読

速読の必要性は皆感じているはずである。
これだけ早いスピードで世の中が変化すれば情報量も半端ではない。
出版される本の量も凄まじい。
読まなければ取り残されそうな気になる本も毎日雑誌や新聞の書籍の紹介欄で次から次に出て来るので大変である。
只単に早く読めれば良いわけではない
中身が大切である。
今の自分に本当に必要な物を素早く見分け熟読すべきは精読し、さっと読み飛ばしても良い本はざっと目を通して要点だけを頭にインプットしておけばいい。
要は何をどのような目的で読むか?きちんとしたスタンスで取り組む必要があると言う事である。

経営は生きる上での決断の積み重ねと同じ

生きていくためには生活の糧を稼ぐために仕事をしなければならない。
仕事の種類が何であれそれは恒に判断を求められ続ける経営である。
 一人であれ集団であれ一定の成果を求めて人は仕事をこなす。
分岐点に出会うたびにどちらに向かうべきか決断を求められる。
どちらに行く方が実りが多いのか決断しなければならない。
場合によっては取り消しのつかないあるいは引き返せない判断を下してしまう可能性もあるのが現実である。
 結果的に良かったと言える決断の事を成功と言い、悪い結果に結びついた判断を失敗だったというだけだ。

 
 

組織は常に肥大化しようとする

 どんな組織であれ組織というものは常に拡大しようとする。
最初は小さな小さな集まりでも時間の経過に比例するように肥大化していく。
その原因あるいは原動力はその組織を構成している個々人の内面にある欲求である。
 人が常に権力を拡大させて行こうとする欲求を持つようにその構成体の組織も拡大欲求を持つようになる。今日よりも明日、明日よりも明後日という風に常に組織を肥大化しようとする欲求に従って動くようになる。 最初は一人か二人の組織がいつの間にか数人そして数十人の組織に成長してしまうのはその為である。その成長課程は必ず人手が足りないので人数を増やして欲しいと言う形で要求された人員増員が基本である。じぶんの所属する構成部門の権力増大欲求である。
 最初一人か二人の構成員で済んだはずの部署がいつの間にか数十人もの人数を要求する部署になってしまうのである。人はそのような状況の事を成長あるいは発展と呼ぶ。
 実体はどうか?と言うと何の事は無い。仕事としてはあまり必要でない事を無理矢理その部署に必要な仕事と位置づけて作り出したものでなんの為にそんな仕事をしているのか分からない事さえままある有様になる。何故か?それは味方あるいは仲間が多ければ多いほど自分たちの権力が増すからである。
そのあげく無駄な人材が無駄な予算を食い潰す。公的機関の場合は税金の無駄遣いである。これは今の公務員の有様を見ればよく分かる。組織を管理する人間が本質に気付いて歯止めをかけなければ組織は拡大を続け挙げ句の果てに破綻する。夕張が良い例である。人手や予算を増やす前にどうすれば生産効率を上げる事が出来るかに知恵を絞るべきである。

人格・家の格式・国家の品格

 一人一人に人格があるように家にも家格・格式がある。
言うまでもないが家・格格式はその家庭に代々受け継がれてきているもので一つの流儀というかスタイルのようなものである。
 結婚をするとお互いの家の流儀の違いに戸惑う事が全くない人はまずいないだろう。
 嫁として嫁いだ先の格式になじめず苦しんだ古い時代の話は今ではあまり耳にしないがやはり伝統や格式を重んじる家庭ではその家に入った以上は適応を迫られるだろう。
 格式というものが単なる形式であればさほど気にしなくて良いかも知れないが代々の智恵の集積されたものがその家の格式なのだから大切に継承していく価値があるはずである。
 格式や伝統を重んじる生活の中には風格が感じられる。
人間として生きていく上で大切にすべき物事が自然体で身に付いていく。
賢い先祖がいるからこそ生まれた知恵は今を生きる子孫の力になるはずである。
そういう意味でももっともっと伝統や格式に目を向けていくべきである。
国家の品格で藤原正彦氏が述べている事も同じ事だと思う。

2007年4月22日日曜日

銃社会アメリカ

15年以上前に子供2人を連れてアメリカ西海岸の旅行をした。
その時のオプショナルツアーで銃の射撃の経験が出来るツアーに参加した。
指導者は射撃練習場の専属でオリンピックの代表選手の経験があるという鹿児島出身の日本人だった。
一通り拳銃の簡単な仕組みの説明と取扱方法の注意があった。
その後射撃場で防音用の耳当てを装着した後実弾を込めて射撃となる。
 38口径のものも含めて3種類を試させて貰った。最初の1発目はさすがに不安があったが2発目からは落ち着いて出来た。的を射るのはコツをマスターすればさほど難しいものではないような気がした。
比較的近い距離でと言う条件があればの事であるが。銃の取扱は一度経験したものにとってはさほど怖くなくなるような気がした。これは結果的にやはり怖い事である。いざとなったとき銃に手が向く事になるかも知れない心理を養うに充分な経験である。
 つまり何の為の練習場かというと一歩間違えば人殺しの練習になると言う事である。
 アメリカという国で銃の規制がなかなか進まない原因はこういう施設の存在にもあるだろう。
全米ライフル協会は積極的自衛のために銃の規制に反対している。
拳銃やライフルが手軽に売られており手に入る社会だから自分に向かって銃口を向ける相手は自分で始末せざるを得ないという考えになるのも無理からぬ事かも知れない。アメリカはやはり野蛮な国である。

パスツールコルベン

パスツール研究所はパリを中心に世界中に施設があり、ボルドーにも研究所がある。
ボルドーは言うまでもなくフランスの有名なワインの生産地である。
パスツールはフランスのボルドーと縁がある。
彼は発酵の研究からモノが腐るのは空中の有害菌がモノに付着し増殖して起きる事を発見した人である。
パスツールコルベンとはその原理を証明するために考案されたフラスコで口が毛細管状に細く細くなっており一端煮沸した後にそのフラスコの中に雑菌が入り込まないように工夫されたものである。
この証明から発酵学は飛躍的に進歩した。
なぜこんな事を書いているかというと、我が家の一員が鍋などに入った食べ物をしょっちゅうネマ(腐敗)らせてしまうのである。幾ら説明しても理解できないのかお玉を半開きの鍋ぶたに挟ませたままで放置する。結果として空中の雑菌の繁殖で料理がすぐに腐敗して駄目になってしまう。この繰り返しである。鍋の中に残りがある内には必ずお玉は外に取り出し、ふたは密閉状態を保つようにきちんと閉めるようにしなければならない。一晩置くときなどはお玉は洗って置く。ふたを密閉する前に一度煮沸するくらいの熱をかけておく方が日持ちが良くなるのは言うまでもない。

機転

医者として付属病院で後輩インターンに手術の指導をした時の経験を弟が話していた。
厳しい受験競争を勝ち抜き一流大学の医学部を出たインターン程いざと言うとき機転が利かないという。
手術などの際、予期しない状況に見舞われた時に臨機応変の処置がなかなかできない人が多いとの事。
 決められた手順通りに正確に早く仕事を処理する能力には秀でているのだが、応用力というか機転を利かす事は不得手なのだそうである。
 論理的な思考能力には優れているのに、総合的な状況判断に必要とされる感性が欠如しているのかも知れない。 広い意味でのしたたかさあるいは落ち着きや情緒と言っても良いものかも知れない。

 数学者である藤原正彦氏が言っていたが感性が豊かでないとあるいは美的情緒がないと数学的な発見は出来ないそうである。

子供の怖さ

 子供の好奇心や無頓着には時々辟易する事もある。
 しつこく質問されて閉口した経験のある人も多いだろう。あるいは気配りの無さにどぎまぎということもある。
しかしこのような好奇心がきちんと満たされて育てられた子供は優しく豊かに育つ。
無頓着をたしなめる大人が周囲にいればそれだけ世の中に気配りができる人間に成長できるだろう。
 
反面、心も知性も情緒も満足に成長する機会がない子供の場合はどうだろうか?
 子供の怖さは純真無垢なようでその実は悪魔的な悪を行使する場合がある事では無いだろうか?
大人の理性も知性も判断能力も持ち合わせていない子供はいったん走り出すと歯止めがきかないのも怖い。
 中学生や高校生など子供が引き起こす犯罪には、思慮の浅さから来る実に怖い犯罪がある。
ホームレス狩りやテレクラを利用した恐喝殺人事件など枚挙に暇がない。
 知性も感性も情緒もそして心も豊かに育てるにはまず今の親たちの教育に対する認識から見直さねばならない気がする。

愛するなという釈迦の教え

愛は執着だから愛してはいけないと釈迦はいっている
仏の教えは何ものにも執着するなと言う教えである。
仏陀の言う愛は5つ。ピヤ(情愛)・ペーマ(友愛)・ラティ(恋愛)・カーマ(性愛)・タンハー(渇愛)
自己のために人を愛するのは渇愛である。
のどの渇きを癒すために水を飲むとますます水がほしくなるような渇きがその本質だから更に切なくなるのは当然である。

西洋社会でいう愛にはアガペーとエロスの2つがあると高校の倫理社会科の授業で習った。
アガペーは神への愛、エロスは人への愛。

読書の効用

本を読む事は先人の歩いた道を追体験する事に他ならない。
自分では一生かかっても経験できないような事を本を読めば疑似体験できる。
そしてその疑似体験の中から経験知を得る事が出来る。
時間的にも空間的にも不可能な体験が可能になるのが読書である。
しかも本はそして活字は極めて安い費用で手に入れる事が出来る。
大学時代に一年ほど居候した叔母の家で当時中学生の従兄弟に対して本の持つ価値について話した事があった(らしい)。”活字は安い”という表現で。
最近久しぶりに会った従兄弟からその事を言われてすっかり忘れていた自分が少しばかり歯がゆい思いをした。
 当時福田恒存の評論集にのめり込み、それまでの考え方が根本から変革された時期だった。
僅かに本の代金のみで先人の貴重な体験を自ら経験する事が出来るのである。
整理された分かり易いエッセンスとして提供された経験知は極めてローコストの教育実習と思えば安いモノである。偉大な思想家の思考課程とその成果としての思想さえも簡単に手に入る。

遊びと無駄と

無駄な事ばかりしていてもある時その無駄が突然有用な経験に変化する事がよくある。
興味の赴くままにいろいろな体験(読書もその一つ)をしておくと後々それが役に立つ。
すぐには役に立たないようなその時には全く無駄な事でも将来急に役に立つ場合もある。

急いでいるときほど近道をしたくなる。
しかしきちんとした道筋に従ってゆっくりと行動しておいた方が、一見遠回りでも結果的に良かったと言う事がままある。
急がば回れ 、せいては事をし損じる。
というのはこのような事を言うのだろうと思う。

近道寄り道回り道たまには無駄をのんびりと。

智恵と智慧と経験知

経験的に身に付けた能力を智恵、宗教的哲学的な叡智を智慧という。
悟りを開くための智慧、道理を悟る才知の事を智慧という。般若心経の般若。
智慧を持って悟りの世界に到達する。
はっと気付いて道理に目覚め、悟りが開けるような場合の気付き。

PARIS・・・サンチエ地区

サンドニ門からルーブルの方向に大通りと平行して狭い通りが続いている。
その両側には卸問屋が軒を連ねていて路地や建物の中庭の奥にはいわゆるマンションメーカーのような小さなファッションオフィスがいくつも存在する。
 猥雑な感じがするのは昼間から客目当ての娼婦が胸の大きく開いた服を着て咥えタバコで路地の壁に寄り掛かっていたりするせいであろうか。
 サンチエという名前だけは聞いたことがある人も多いかもしれない。
 問屋街なので現物が出回る時期は日本よりもひと月以上遅れているような気がする。
 普通日本では遅くとも1月末から春物の展開が始まるがパリの問屋街では3月に入ってからである。
一度2月の終わりに行ったときに買う商品がなくて仕方なしにルーブルやオルセーの界隈で時間をつぶす羽目になった事がある。
 
 

2007年4月21日土曜日

スイスの豊かさ

はどこから生まれるのか?
 ヨーロッパの中心部にあって山地と湖しかない国なのにどうしてスイスが豊かなのか?
 前から疑問に思っていた。
 師弟教育のやり方に他国に抜きんでたものがある事がその理由ではないか?
 公用語が独仏伊3カ国語とトリリンガルは普通。
 言語的にも周辺各国との交流に必要な言葉の壁を克服している事。
 知的な生産に最適な環境。
 地理的にもヨーロッパの中心にある。
 人種が入り乱れていても永世中立国としての立場を最大限に生かしている。
 

ミラノのスカラ座にオペラを

見に行くと言う二人連れのご婦人とチューリッヒからミラノまでの列車で一緒になった。
その内の一人は日本のカネボウで雑誌の編集をした事もあるという。
香港からのキャセイ便で朝早くチューリッヒに着いてミラノに向かう列車に乗り込むとまもなくその二人が同じコンパートメントに乗り込んできた。
 最初二人はドイツ語で話していてさっぱり会話に入り込む余地無しだったのだが、途中から英語で話し始めたので割り込んだ。
 今からミラノに行ってオペラを鑑賞した後でショッピングを楽しむつもりだと言う。
 エレガントなカジュアルドレスに大きな黒いナイロンバッグを持っていて帰りはこれいっぱいに服を買って帰るのと言った。 ナイロンバッグは何の飾りもないシンプルなものでたたむと小さくなるものだった。
 二人とも今はもう現役を引退した(ばかりの)キャリアレディと言うところだろうか?
 合理的な考え方をする典型的なビジネスウーマンの名残があった。
若い頃は二人ともスペインの高校に留学しその後ドイツの大学で学んだという。
スイスという国は公用語はフランス語ドイツ語イタリア語の3つ。
それで英語とスペイン語の5カ国語を話せるスイス人はざらだという理由が分かった。

あかねさす 紫野ゆき 

あかねさす 紫野ゆき 標野しめのゆき 野守のもりは見ずや 君が袖ふる
(茜草指 武良前野逝 標野行 野守者不見哉 君之袖布流
高校時代に真面目に古文の勉強をした人なら誰もが覚えている歌である。
額田王が大海人(後の天武天皇)に向かって詠んだうた。

 紫野は紫根草(通称紫草:”むらさき”と読む)の栽培してある土地。
高貴な古人のみが着用する事を許されていた衣服の色、古代紫。
その染色に用いる色素染料の原料で薬草としても用いられたのが紫根草。
 紫野というのはその栽培地のことである。
 病に臥した高貴な人が紫色の鉢巻きをして闘病している様は誰でも一度は何かの折りに目にした事があるはずだが、当時からその薬効が知られていた証と言える。
 縁あってこの絶滅危惧種と言われる紫草(むらさき)の栽培に日本で初めて成功した石川氏と知己を得た。
 彼が
美しい古代紫に染めあげた布地に染め抜かれたこの歌に古人の感性の豊かさを再発見させられる事になった。

2007年4月13日金曜日

相手の立場になってものを考える事

が出来ない人間が如何に多いか最近分かるようになった。
 家庭内では嫁姑の間の確執などもこの類かも知れないがこの程度は少し努力すれば問題にもならない。
 しかし社会的な問題では利害関係が対立している時にこれが出来るか出来ないかで結果は正反対のものになる。相手の立場に立って考えるというのは言い換えれば思いやりである。
 争い事の原因というのは相互の無理解や理解不足によるものが多いが、一方が加害者である場合
被害者の立場でものを考える能力(つまり思いやり)が加害者側に著しく欠如していると間違いなく争議になる。
 少々の意見の申し入れでは全く取り合う気にもならない、少し強く抗議されて初めて相手の話を聞いてやろうか程度、いざ本気で怒って抗議されて初めて事の重大さに気付く程度なのが普通である。
 そして具体的に争議が訴訟に発展しないと本当に反省すべき事にさえ気付かない。
 もちろん言い分というか正当性というか、争議の場で議論になって初めて本音が出てくるような場合、やはりとことん双方の主張を述べあい裁判所など第3者の判断を仰がざるを得なくなるのは仕方がない。
 しかし加害者側の判断に根本的な誤りがあった場合はそれを前もって正そうとしても無駄である。



 

流行を追う馬鹿になれ。

最近の若い人達はこの点で極めて素直だと思う。
ファッション雑誌を見て気に入ったスタイルがあると即自分のおしゃれに取り込んでしまう。
中高生など特にその反応のスピードが速い。
躊躇など殆どしていないように見える。
おしゃれに関して言えば一昔前に比べれば男の子も含めて皆ファッションの追っかけをしている。
流行を追いかける馬鹿?になりきれるということは、彼らが彼らの人生を生き生きと送っているという事だ。
世の中が平和で豊かだから出来る事である。

シュトーレン

というパン(ケーキのような菓子パン?)がある。
ドイツのクリスマスの時期だけ作られるドライフルーツなどがいっぱい入ったワインによく合うパンだ。
保存も室温で日持ちが良いので長期間食べることが出来る。
少し堅めになってから薄く切ってワインのつまみにもなる。
リキュールなどを加えてしっとりとさせておくと適度の柔らかさで食べやすくなる。
パン生地の作り方はあまり変わらないが一時発酵後にフルーツ類を混ぜ合わせてまた寝かした後焼き上げる。その後グラニュー糖をたっぷりと使い甘く甘く仕上げた上に、最後に粉砂糖をモンブラン状に塗してやるとクリスマス用のパンケーキ、シュトーレンの出来上がりだ。
時間があれば毎年11月の末から12月の初めにたくさん焼いておき寝かしておく。
そしてクリスマスのプレゼントにすると確実に喜んで貰えること請け合いだ。
去年は忙しすぎて全く焼く時間がなかったので今年こそと思っている。

流行遅れの馬鹿になるより

「流行遅れの馬鹿になるより流行を追う馬鹿になったほうがよい」
というのはカントの言葉である。
が流行を追いかける事についてじっくりと考える人などいはしないだろう。
果たして流行を追いかける事は馬鹿のすることなのか?
という問いにそうだと答えるのは自分自身に対する欺瞞である。
流行を追いかけるのは極めて自然な事だからだ。
人間は生きているという証に目の前の事物に反応する。
はやりの色に反応し、流行のデザインに反応する。
流行の音楽に体の方がリズムに合わせて踊り出す。
流行のドラマを見て心の底から涙する。
これらは皆自分の視覚聴覚味覚臭覚触覚の5感を総動員しての反応である。
流行に取り残されるのはやはり5感の感受性が鈍いせいだと思った方が良いようだ。
理屈抜きに人間の心身は回りの環境に反応して生きているのだから。
流行を追いかけられない人は人として人生を生きていないとカントは言っているのである。

Way of thinking と How to think

直訳するとどちらも「考え方」と言うことになるが意味は大きく異なる。
 Way of thinking(ウェイオブシンキング)の方は、物事を考えるときの正しい思考過程がすでに確立されている。
つまりすでにその人が獲得している知恵を働かせて考える事を意味する。
  以前ユダヤ人のアパレル会社の社長とパルマのトラットリアで遅い夕食を取っている時に、「今の日本のアパレル業界の考え方は間違っている」と言おうとして、私がHow to thinkという表現をしたら、即座にWay of thinkingだねと訂正された。
 その時はリスクのない受注生産とリスクの高い見込み生産について自分の見解を述べたかったのだが言われてみないと分からないものかも知れない。日本語に訳すと同じになるが全く違う言うことに内容になる事に気付かずに使っていた。
そして更に指摘されてすぐに気付いたのがユダヤ人というのは物事の考え方を民族全体の知恵として賢く継承しているということだった。ユダヤ教の神との契約として知恵を残している。だからみんなもれなく賢いビジネスマンになれるのだと思った。
 How to think( ハウトゥシンク)の方はどのように考えるべきかという意味合いで漠然とした状態であり、まだ解決策など遙かに遠いところにある時に使う表現である。
知恵がまだな いときの表現である。
だからhow to think の頭がいくつ並んでもいつまで経ってもいい解決策が生まれないのだ。

Sangeet サンギート その2


 彼はこの教団でMeditation(瞑想)とTherapy(癒し)を通してギター人生の蹉跌を乗り越えたのだと言う。
つまりプロとしての迷いが生じ悩んでいた時に仏教の教えに救われたという事である。
 現在、冬場はそのWhagwanOSHO率いる教団のあるプネで暮らし、夏場はルクセンブルグを拠点に世界中でギターの指導をしたり演奏会をしたりしながら暮らしているらしい。
 台北からの便に乗り合わせた際に彼は大切そうにギターを抱えていて搭乗後に客室アテンダントにかなり高級なギターなので注意するように告げながら預けた。
 後で調べたら ANTONIO MARIN MONTERO と言うグラナダの有名なギター製作者のつくったものだった。バイオリンほど高価ではないが最低でも市価150万円以上はするいわばストラディバリに匹敵するようなものだった訳である。荷物と一緒に預けるわけにはいかない道理であった。
 その後一度オランダのスキポール空港からの帰国便に乗ることになった時にパリから陸路ルクセンブルグに立ち寄ったが地方に出かけていて留守だった。事前連絡も無しに行ったのだから当然なのだがあえなかったのは残念だった。お陰でルクセンブルグ城の散策の機会に恵まれたのは感謝せねばならない。

Sangeet サンギート

Joaquin Prats ホアキンプラート と言う名前が本名である。
世界的なギタリストであるロドリゴの直弟子のスペイン人のギタリスト。ロドリゴ教授が指導するマドリッド王立音楽院でPrize of Honorを得ている。
カナリヤ諸島の出身で夏はルクセンブルグ、冬はインドのムンバイの隣のプネに暮らしている。
台北からの乗り換え便で隣の席になったのがきっかけでバンコックまでの4時間を仏教論議で潰すことになった。台北での音楽指導の帰りでビザの書き換えをするためにバンコックに向かっているとの事だった。
彼は仏教徒である。宗派は何というのかはよく分からないが教祖はBhagwanShreeRajneeshという。
彼のギター演奏のデモテープやOSHO(日本語の和尚)discourseという説教の入ったテープを別れ際に貰った。OrangebookとThisVeryBodyTheBuddha(その宗派の基本的な教義が書かれたもの)の2冊の本も貰ったのだが英語が面倒なのでまだぱらぱらと眺めた程度でそのままにしている。
 

2007年4月12日木曜日

作家五木寛之氏と数学者藤原正彦氏の

同じ引き揚げ体験者としての対談が文春五月号に掲載されている。
最近母親で作家の藤原ていさんの「流れる星は生きている」を読んだばかりだったので興味深く拝読した。
藤原氏
の著書を初めて読んだのは「国家の品格」が最初で、藤原ていさんが著者の母親であること、そして非常な戦時体験を書いた本の存在を知って読んだのが「流れる・・・」である。
次いで
「若き数学者のアメリカ」「古風堂々数学者」の二冊を読んだ。
最初の国家の品格は品格を無くしてしまった現在の日本を憂う本である。
ベストセラーになって一躍一般世間に名を知られることになった名著である。
今の時代の日本人全てが読むべき本だと思う。
それぞれの著作から、藤原ていさんの引き揚げ記録の中ではまだ二歳の幼子だった藤原氏の、これまでの生き様が伝わってくる。
我々日本人の今のあり方に警鐘を鳴らしている。

2007年4月11日水曜日

知恵とは

 具体的にどんな事が出来る能力を言うのか?
 パソコンや携帯電話そして電子手帳・電子辞書を使いこなす能力もあるだろう。
 パソコンなどを利用してインターネット上のデータや情報を解決のために利用できる形で瞬時に取り出す能力である。何をどのように調べれば解決の糸口にたどり着けるのかを知っている事が重要だ。
 いま課題として直面する問題に対しそれを解決する手だてが求められている時に問題を解決していく手順や手だてを考えひとつずつすべて片づける。使える手段は問われない。
 ありとあらゆる方法の内で最も効率的で短時間に問題を解決する能力こそがいま最も重要になってきている。時間もコストも小さい方が良い。消費エネルギーも同じだ。
 賢さや知恵が求められているのである。
 知恵やひらめきは感性の豊かさから生まれる。
 筋道を立てて論理的に考える能力と感性の豊かさを養わなければならないのはその為である。
自分の頭の中に知識を蓄えておかなければならない時代はもう終わったのである。

知恵と知識

 これからの社会では知識を持っているだけの人間(普通専門家と呼ばれている人)の価値がどんどん無くなり代わりに知恵のある人間すなわち問題解決能力のある人間や企業が価値を持つようになる。
 専門家と呼ばれる人達のありようも今後はその専門分野の問題解決方法(知恵)を重視されるようになる。
IT業界ではこの問題解決の方法の事をSOLUTION(ソリューション)と呼んでいるがまさにソリューションが全てにおいて優先されるようになってきている。
 GOOGLEを持ち出すまでもなく今知らないことを調べたければパソコンの前に座りキーボードを何度か叩けば答えの候補が瞬時にリストアップされる。
世の中の出来事もあっという間にネット上に現れる。
 詳しいことを知りたければキーワードの入力ですぐさま関連情報も手に入る。
 研究者達の論文さえ見ることが可能である。
 知識だけを売り物にしている職業の人達が淘汰されていくのも時間の問題と言われるのはこの事なのである。
 プロフェッショナルの定義が変わりつつあるのである。
 カンニングオーケーの時代になる、と言う表現で大前研一は言及しているが従来の試験そのものが辞書・参考書・パソコン持ち込みオーケーの試験スタイルになるかも知れないのだ。
 これからの世の中で要求される能力が変わってきたと言うことである。

2007年4月10日火曜日

デジカメの事

 デジカメの走りはカシオである。
最初にデジカメを買ったのはQV10というcasioの機種だった。
 世の中に初めてデジタルカメラという名前が認知された最初だった。
 イタリア旅行に早速持って行き現像することなく画像の記録を後でチェックした。
 それからもう10年以上が経ち、目覚ましい技術進歩がデジカメの性能も大幅に向上させた。
 画素数は100倍、手ぶれ補正、動画の録画などなど。
 メモリーも容量は大幅に大きくなり容積は極端に小さくなったし、重量も軽い。
 操作性も向上どころではない。
 通信機能と連動してメールも手軽に送れる。
 至れり尽くせりの上に価格もどんどん安くなっている。
 消費者にとってこんなに嬉しい事は無い。

株価がどのようにして決まるかを

皆分かっていて株式の取引をやっているのだろうか?
と、時々不思議に思う。
ライブドア事件のような事が起きて初めて大量の株取引の被害者が明るみに出た。
しかし株価は会社の実体とは遠く離れたところで決まっていくものだという本質を知っていれば別に不思議でも何でもない事ではないか?
 株価はいろいろな要因で影響を受けるが、一番の要素はその会社の将来の資産価値が増えるか減るかを決める情報である。将来この会社は新製品で利益が出そうだとなれば買い手が増え、元々買っていた値段より高くて売れれば利益のために売る人が出てくる。その折り合いの中で取り引きの株価が決まりその取り引き実績を基に新しい株価が決められる。買い手がひどく多くて売り手が少なければ株価は当然高騰する。買い手が高い株価でも買いを入れればその値段で取り引きが成立する。
その格差が大きく開けば開くほど会社の実績から遠く離れたところで株価は落ち着く事になる。いつかは実績より高すぎる分の揺り戻しが来るはずだから最終的には実体よりも高く買った人は損失を被る事は当たり前である。株で損をしたと言う人はだからどんな理由であれ文句は言えないはずである。

庭いじりと土

 我が家の敷地の土は少し深いところは岩盤が風化した赤土である。
 裏山は全体が風化した岩盤である。
雨が降ると粘土状になり黄褐色の泥水が流れ去った後にはほんの僅かな砂が残る程度である。
有機物を含む厚さ約二十センチの表層土から下は花や野菜の生育には全く適さない酸性土である。
盆栽には向いているようであるが通常の発育を望むには向かない。松やつつじやツゲなどの庭木があまり大きくならないのは良いが。
 従って野菜や草花を育てるには生育に適した培養土を客土してやる必要がある。
その前に苦土石灰を撒いて少しでも中和してやらねばならない。その上で客土して出来るだけ酸性化しないように気配りしてやる必要がある。屋敷内の井戸水も酸性なので水やりにさえあまり向かない。
 この事に気付くのに結構時間がかかった。枯れる事はなくとも成長しないものが多すぎるのである。
 土壌の酸度を調べるために酸土計を買って初めて分かった。
 植木鉢に入れる土も全て購入する必要があるが最近はタダみたいな値段で培養土が手にはいるようになったので有り難い。
 植物の種類毎に鉢土の混合比も変えなければ最適の環境を与えた事にはならない。

 

日曜大工・日曜園芸

 最近ホームセンターが日本中のあちこちに出来たお陰で日曜大工や日曜園芸に取り組む人が増えてきたようだ。
 自分もその一人だが日曜大工や園芸をやるようになって明らかに良くなった事がいくつかある。
まず体を動かす事で体力の強化が出来る。汗も流すので脂肪分の発散にもなり肥満の解消も出来る。
次に精神的に大らかになる。のんびりした気分になれる。大工仕事でも創造的に頭を働かすにはリラックスが必要である。そして、自分自身の環境が自らの努力で改善できる。これが実は最も大きなメリットであろうと思う。整理棚やテーブル作りに始まって、家の回りの修理やウッドデッキ作りなどなど毎日の生活環境が変えられる。園芸の方では花瓶に挿す花も観葉植物も注意深く世話をしてやるようになる事で気持ちが繊細になる。野菜作りも簡単に出来るので毎日新鮮野菜そのものが食べられる。植物の成長を見守る事で自らも生きている喜びを実感できる。作業中に小鳥達がやってきて囀りを聞かせてくれるのも心が和む。みみずや蝶々にも生命の躍動を感じるし、季節毎に咲き乱れる花たちも全て自分の為に咲いてくれているのだという気持ちになる。
 この瞬間瞬間こそが日曜園芸の醍醐味ではなかろうか。

車の燃費

 今トヨタのプリウスに乗っている。
一回目の車検を済ませたばかりなので4年目に入る。
 購入は試乗してその場ですぐに決めた。
 理由は簡単。コストパフォーマンスにおいて他に類を見ないからである。
 ハイブリッドエンジンというトヨタの新開発技術のお陰で馬力(パワー)も燃費も比類がないとはこの事だ。
 それまで乗っていた車はリッター当たり7~8キロメーターしか走らなかったのにプリウスはなんと平均でも24キロ。コースにかなりの山道の上り下りを含んでいてもあまり変わらない。
 燃費の節約の合計で今までの車の買い換え周期だと一台分のおつりが来る。
(搭載してあるバッテリーの買い換え寿命の事は今はまだ問題にしていないが)
 これまでの燃料代がばかばかしいほどなのだ。
 それっきり大きい車は無用の長物になってしまった。
 だから車検を一年残してこの3月末で廃車にした。
 別にトヨタの宣伝を頼まれたわけではない。本田の車にもハイブリッドの低燃費車があるのは知っている。しかし評価する機会がなかったからプリウスについて書いただけの話である。

携帯電話

 丸3年間使ってきた携帯電話を必要に迫られ最新型の機種に換えた。
一言で言うとたった3年間ですごい進歩である。
 何でもありでパソコンの代用が殆ど出来てしまう。何よりも画像データがきれいに表示可能になった。
 新しい機能としては、テレビ(ワンセグチューナー)、ラジオ、Felica(お財布携帯)とPCサイトビューアーなどがある。パソコンとのデータのやりとりも出来る。
 パソコンと同じレベルでネットにもアクセス可能になった。google検索も容易に出来る。
 キーボードからの入力がパソコンに比べて今イチ不便なのが玉に瑕ではあるがこの小さいボディから考えてもココまで来た事に改めて驚いている。
 気になっていた通信料金も固定料金が適用されるようになったので安心である。
 Bluetooth機能のお陰で自動車の運転中も会話が出来る。ナビ機能で東京や大阪でも迷子にならずに済む。
 電灯・辞書・スケジュール・メモ・日記・音声メモ・電話録音などなど電話機とパソコンの機能は殆ど全て網羅されている。
 標準で1ギガバイトのメモリーも搭載されており一昔前の高性能パソコンも敵わない。
動く書斎のようなものである。

自分自身の言葉で語らねば

受け入れられない時代、人の受け売りや嘘偽りも通用しない時代になった。
誠実に語られた真実でなければすぐにバレてしまう世の中になった。
ネットのお陰である。実に公平な世の中になりつつある事をまずは喜ぼうではないか。

ウェッブ2.0のもたらす効用はこの社会を変革しつつある。
現にこのブログがウェブ2.0の産物である。
パソコンさえ記憶装置の要らないもので済む。勿論ネットの向こう側にデータを蓄える装置が存在しているからだが、ネットに繋がりさえすればすべてOK!!の世の中になった。
世界中の何処を旅してもそこにネットに繋がる道具があれば何も要らない世の中になりつつあることを実感できる。情報の管理はネットに一元化されつつある。IDとパスワードさえきちんと管理しておけば良い。

2007年4月7日土曜日

選挙

 全国統一地方選挙の真っ最中である。
 いい加減やめて欲しいと思うのが選挙運動期間中のあの選挙カーからの連呼。
只単に大声で候補者の名前をわめき叫ぶだけの五月蠅いだけの連呼。
 聞く人の頭に名前を刷り込む効果だけを期待しての連呼。
顔写真入りの候補者のポスターも同様なものだ。どうせろくに知らない候補者達なのだ。
立て看板さえももう要らないのではないか?選挙直前になって初めて顔を知ったところでどうなるのだ。
 政策や思想やひととなりなどを知りたいのならテレビで時々候補者の演説や討論会を流せば済むことだ。ボロが出るのをあるいは無能さがバレルのを恐れてたいていの候補者は討論会はやりたがらないが。インターネットで選挙民が見たい時にいくらでも見れるような形も今は一切金をかけずに出来るのだから。
しかし選挙民は(解っているのかも知れないが)今の選挙運動のやり方を誰もやめようというものはいない。
 どうせ本当に自分たちに取って一番必要で最適な候補者が誰なのか判断できる人はいないのだから、ほとんどが「一番熱心に頼まれた人にでも入れようか」、「金や賄賂を持ってきた奴にでも入れてやろうか」、というのがおおかたの選挙民の有様だ。
 たった今まで名前さえ知らなかった候補者が突然立候補してあらゆるコネを使い接近し投票を依頼する。選挙カーで連呼する。人物も能力も知らない。経歴が僅かに分かるが実質的な政治家としての能力は全く未知数のまま投票日になる。結局金とコネを多く使った方が有利なのはそのせいである。
 テレビもラジオもインターネットのように便利なものも昔はなかった。
 昔からある新聞さえも充分に利用しているとは言えないのにという向きもあると思う。
 が今では選挙運動や投票の方法はいくつでも考えられるはずである。
  インターネットは随分普及してきたし選挙運動だけでなく投票そのものも、その気になればもっと効率化出来る。
 最初のシステムを構築する費用が少しかかるかも知れないが、あとは費用もタダ同然である。
 政治の本質は利権利害の調整である。だから選挙が利権争いの場になるのは避けられない。当選できるのは支援者達のお陰だ。だからといって支援者の為に一般の住民の利益に反する行為は許されない。一部の人達のために利益誘導することは許されない。馬鹿な有権者が目先の利益のために長期的視野での利害に気付かず馬鹿な選択をするのはとんでもない民主主義である。旭川市の例を挙げるまでもない。

理想の夫婦って?

どんな夫婦だろうか?
それは欠点を補い合いお互いを高め合える夫婦ではないだろうか。
長所を尊敬し合える夫婦と言い換えてもいい。
人間誰でも欠点は一つや二つどころか数え切れないほど持っているものだ。
それをいちいち論っていてはたちまち離婚する羽目になってしまうだろう。
やはり良いところを素直に評価し合って自分の悪いところを反省しながらお互いに高め合って成長して行けるのが理想ではないだろうか?
男の決断力や女の粘り強さ・忍耐力など
男と女は性の違いからだけでなくそれぞれに互いに無いものを持っている。
だからそれぞれが精神的に落ち込んだ時も支えあえる。
相違点に着目するだけでも互いの良いところは必ず見つかる筈である。

出張パックツアー

 最近東京への出張にはパックツアーを使うようになった。
便利で安いからと言うのが理由である。
以前は頻繁に出かける必要から超割やら特割やらを利用するために2ヶ月もまえから予約を入れ、時々は日程の調整が出来ずにキャンセルということも多かった。
 そしてホテルも思うように取れなくて困ったものだ。
 パックを利用するようになってホテルの事で悩むことがなくなった。
ほぼ出張先に都合の良いホテルで予約が取れる。
予算も明朗会計と言える内容なのが良い。
 10日前までの予約が可能なので出張直前になってからの予定が立てられる点も便利である。
 支払い決済もネット上から出来るしクレジット支払いも出来る。
 これも皆ネットのお陰かも知れない。

新製品

 モノ溢れの時代になった。
 どんな分野であれ新製品の発売ラッシュである。
これまで目にしたこともない商品がこれでもかと言わんばかりに次から次に出てくる。
 さすがに新しモノ好きの自分も「もう良いよ、いい加減にしてくれないか」と言いたくなるほどのモノの洪水である。
 エレクトロニクス製品やIT関連品のような科学技術の進歩による超便利なモノだけではない。
 人類の限りない叡智のたまものとも言うべき豊かな感性が生み出した文化的なモノまであらゆる分野の新製品。
 長生きしたお陰でこんなモノにまで巡り会えるなんてとお年寄り達が言うのもむりからぬ事。
 おいしい食べ物、生活を快適にそして快楽に変える道具、健康増進に役立つモノ、エンターテインメント関連ではDVDやらゲームマシンやらとにかく何から何までも全てが充分すぎるぐらいである。
 こんなにも満ち足りて本当に良いのだろうか?
 何か欲しいものある?と小さい子供に尋ねるテレビのリポーター、返ってきた答えは「別に何にも要らない!」だった。子供は常に何かを欲しがるものだという認識はもう過去のものになったようだ。
 今という時はいみじくも「文化は後から付いてくる」と言った角川の言葉が現実になりつつある時代らしい。

勤めにでる必要がなければ自分で仕事をした方がいい?

自分で何か収入が得られる仕事があるなら務めになど出ないで自分で事業を興せばいい。
人の人生は収入の多い少ないでは計れない。
たとえ収入が減るかも知れなくともその仕事が今より楽しく気持ちよく出来るものならそちらを選択すべきだと思う。
務めに出ることがつまらないからやめろと言っているわけではない。
自分の人生は出来うる限り自分自身の手で切り開いていく方が楽しいのではないかと言っているのだ。
人の引いたレールの上を行くのが楽だし、あれこれその都度の判断・決断を迫られることもない。
勿論人によっては何も考えずに人の後からついていく方が好きな人もいる。それはそれで良いと思う。
仲間と協力しながらやる方が能力を発揮できる人もいるだろうからそれはそれで良いと思う。
独立して何かを成し遂げていくのは並大抵のことではない。
特にこの数年来の経済環境の悪化で独立するための条件がより厳しくなった。
今はじっとおとなしくしていた方が賢明な時代かも知れない。
何も好き好んで苦労を買う事もない。

人は常に成長できるし変革できる。

人の細胞は日々更新されている。
新陳代謝というのは古い(陳)細胞が新しい細胞に生まれ変わることだが生きている限りこれが止まる事はない。
 だから人は日々いつでも生まれ変わっているとも考える事ができる。
 精神的にも人は生まれ変われる。成長できる。
 それを妨げるのは自分自身の思いこみや考え違いであることが多い。
それ以上に他人の思い込みは人の精神の変革成長に最も妨げとなっていると思う。
偏見はその最たるものではなかろうか?
人は思い込みが強いと他人の成長をなかなか認めようとはしないものだ。

政治家への献金について

政治資金規正法という法律がある。
じつにおかしな法律だと思う。ざる法と言われる所以だ。
そもそも政治資金と言うのは何を意味するのか?
その出所は平たく言えば支援団体や支援者からの寄付金や献金だ。
寄付金や献金の受領と収賄とは何処が異なるのか?相違点は直接的賄賂性があるかないかだけではないのか?
議員や首長になるための政治運動にかかる費用を寄付金や献金などで賄ってよいものなのか?
支援者というのは何のために政治家を支援するかというと自分たちが将来利益を得る為である。
従っていろいろと呼び方を変えたところでそれは間接的賄賂に他ならないのである。
この点で既に公平さを欠いているのだから建前など意味をなさない。
本質は賄賂で当選の暁にはどうぞ便宜を計って下さいねという賄賂の手付け金のようなものと考えた方がすっきりする。
政治団体や業界団体も似たようなもので要は当選後の利益誘導をしているだけである。
本当の政治活動をするために金が果たして必要なのか?
本当の政治活動のために必要な資金(殆ど調査経費のみではないか)は当選後に活動に必要な額を厳正な管理の元に給付すればよい。

なぜ人のものを盗んではいけないのか?

という問いに対する答えも同じだと思う。
今更答えを考えるまでもない。
当たり前のことだ。
くどくどとそれらしい理屈を言うよりも、いけないことだからいけないと言えば済むことだ。
小賢しい理由や理屈を言ったところで、盗む人間は盗む。
盗むと罰されるから盗むな、などというのは最悪だ。

なぜ人を殺してはいけないのか?

 という問いかけに即答できる人は少ないだろう。
 人を殺してはいけないというのは当たり前のことだがいざ理由を求められれば考えざるを得ないから考える。
 いちいち当たり前のことの理由や説明をしなければならない時代というのも生きにくいものだと思うが
 社会の通念というものが壊れてしまったらこんな世の中になるのだろう。
 昔は「親孝行しなくてはいけないよ」とか「子供は甘やかしたらだめだよ」とか、社会全般に共通する考え方・認識というものがあった。
 これらはすべて生きていく上での知恵としての言葉である。
自分たちが幸せに生きるためである。

 ではイラク戦争にしろベトナムにしろ「戦争で人を殺しているのは良いのか?」という問いかけにはどう答えるか。
「人の命はかけがえがないのだから大切にしよう」、とかいかにもマスコミやら似非文化人やら似非ヒューマニストが喜びそうな「期待される答え」が前提にある設問である。結論を言おう。設問がおかしい。
 何が原因であれ人が人を殺すとき正当化できる理由は何もない。
 理由が何であれ人は自分の利益のために人を殺すのである。
自分達の国益の為に、自分達の宗教の為に人を殺す必要があるから殺すのである。
そこには人道もない。愛もない。あるのは自分あるいは自国の利益と都合のみである。
だから「人殺しはたとえ戦争であれいけないことだ」と言ったところで何の解決策にも繋がらないのだ。

進路

大学の入学式のシーズンである。
人生を左右する新しい旅立ちがそれぞれに始まる。
将来の職業に最も相応しい分野の専門コースを選択し4年間あるいは2年間の間に単位取得を目指す。
大学生活というのはそういう意味では卒業と同時に就職する資格を身に付けるのが目的ということになる。
だから大学の専門分野の選択を間違えれば就職も失敗する可能性がある。
 我が家の次男はLiberalArtつまり一般教養課程を取り、更にそこから興味のわいた専門分野に進ませるつもりであった。
しかしその後ファッション分野では名の知られた大学の大学院コースに進んだのだが途中でやめて今は一応?法律の勉強をしながら塾の講師をしている。
果たしてそれがものになるかどうか不安であるはあるが人生なんてそんなものかもしれない。
本人が至ってのんびりしているのでそれでいいのではないだろうか?

カエル事件

 最近探し物をしていて息子の部屋で偶然にもみつけたモノ。
ふとしたきっかけというのはこんなことを言うのだろうと思う。
25年近く前の事を思い出した。
長男がまだ3歳か4歳頃の事ではなかったかと思う。
家族4人で滅多に行かない買い物に市内のアーケードまで出かけた。
そのときは何かイベントが行われていた様だ。
アーケードの中に珍しく屋台のお店があって、テキ屋のおじさんのかけ声につられて長男がその商品の並ぶ台に近づいて何やら手にとって見始めた。
 それはカエルの親子の大中小の小さな小さなゴム状の模型に緑の色で彩色されたかわいらしいものだった。
 子供にとっては結構高価なものだったと思うが、子供の気持ちをあまり確かめもせずに「さあ行くよ」と促してその蛙を元に戻させその場から離れた。
 子供はいつものようにとことこと後から付いてきていた。
 ところが家に帰ってからふと見ると子供が右手をしっかりと握りしめている。
 どうしたのかなと思って手を開かせると僅か数ミリの赤ちゃんのカエルであった。
 すぐに事情は分かったが今から返しに行くわけにも行かない。第一もう既にお店があるかどうかも分からない。長男には「何故人のものを黙って持ってきてしまったのか」「それは盗みだよ」と話して聞かせ盗みは一番いけない事だと懇々と説教をした。長男は手にくっついて離れなかったと言った。置いたつもりがそのままくっついてきたらしい。確かに子供の少し湿りがちの手にそのゴム製のカエルはくっつきやすいのである。その場は今後の注意をして納めることにした。「テキ屋のおじさんごめんなさい」と子供はつぶやいた。

初めての原稿料

「諸君」という雑誌がある。
40年ほど前に創刊された雑誌だが今も何とか生きながらえているので雑誌としては息が長い。
コンセプトがしっかりしているせいかも知れない。
ファンがしっかり付いていなければ続かないはずだからそれが証拠だ。
 その諸君に大学2年の時に生まれて初めて投稿した。
ものを考えるとはどういう事かについて書いたものだった。
「自分でものを考えるということ」と「客観的に見る考えるということ」についてだった。
マルクスの資本論に出会い共産主義理論の講義を初めて受けた大学の教養部時代のことだから科学的なものの考え方と主観との間に魂が揺さぶられ何がなんだか正直頭の中がすっきりとしなかった時代のことだ。
結論から言うとものを考えるのに客観的という言い方はおかしいという内容だったと思う。
「客観的」という言葉は「事実」に繋がる言葉で、「客観的事実に基づき考えるのが主観だ」ということである。という風に書いた。この原稿料が生まれて初めて雑誌社からいただいた原稿料で確か当時3千円だった。ひと月の生活費が1万5千円か2万円の頃である。学食のランチが100円から150円だったので大いに嬉しかったのは言うまでもない。

2007年4月3日火曜日

生まれては死ぬるなりけりおしなべて 釈迦も達磨も猫も杓子も
世の中は食うてはこしてねて起きて さてそのあとは死ぬるばかりよ 
                           一休宗純禅師
 かの、頓知比べの一休さんのことばである。